最後に、プロフェッショナルな軍は国家に対する軍の関係をどう観るのか、ハンチントンは詳細に論じていく。大きく分けて次の5項目について論じられる。

(Ⅰ)軍と国家の活動領域

(Ⅱ)戦略と戦術 

(Ⅲ)国家に対する軍人の責任

(Ⅳ)軍における忠誠(ロイヤリティー)と服従

(Ⅴ)服従の限界

)軍と国家の活動領域
 まず基本的事項として、現代社会における軍と国家の活動領域について、

 ミリタリー・プロフェッションは高度の専門知識・技能を身に付けているが、その適用範囲は限定されている。その構成員は自らの分野では専門化した能力を発揮するが、分野外でそれを発揮することは不可能である。国家とミリタリー・プロフェッションの関係はこの自然な分業に基礎を置いている。この関係の本質は、軍事的エキスパートの能力と政治的エキスパートとしての政治家の能力の活動範囲の相互関係にある。

 十九世紀に軍事科学のプロフェッショナル化が始まる以前は、一人の人間がこの両分野で同時に機能を発揮する能力を備えていた。しかし現在ではこれは不可能である。古くはナポレオンがこの軍事科学と政治の統一を身をもって実現していた。しかしナポレオンは、この両分野の分割を新たに象徴する存在となったビスマルクとモルトケにとって代わられなければならなかった


)戦略と戦術
 さらに軍人の専門領域である軍事科学における基本的事項として、戦略と戦術の存在が示される。優れた将校はこの戦略と戦術に対して如何に処すべきか、

 軍事科学は何らかの決定と行動を行うためには、プロフェッショナルな訓練と経験によって身 に付けた専門能力が必要となる分野である。この分野は、武力により国家政策を実現することにかかわる分野であるが、不変的領域と可変的領域に分けることができる。

 この区分けはミリタリー・プロフェッションの出現後に初めて認識されたものであるが、不変的領域は人間の本質の不変性と物理的な地理的条件の不変性を反映している部分である。これは戦略と呼ばれている領域であり、可変的領域としての戦術およびロジスティックスから明確に区別されている。

 言い換えればこの不変的領域において、一連の戦争の原則―「根源的」で、「永遠」で、「不変かつ変更不能」な戦争の原則―が確立されるのである。・・・・しかしこれらの原則を実地に適用する方法は、科学技術の変化や社会構造の変化に伴って絶えず変化する

 かくして、理想的な軍人は、戦略に関しては保守的であるが、一方新兵器や新戦術に関しては偏見を持たず進歩的である。彼は軍事科学の不変的側面と可変的側面の両面において等しくエキスパートであり、彼の手腕の真髄はまさにこれら両側面の間の関係―「優れた将としての能力に属する不変の基本原則と、可変的な各種の戦術形態の間の関係・・・・」―によって明確に示されるであろう。政治家がミリタリー・プロフェッショナルの判断を受け入れなければならないのはまさにこの分野である。

 それでは、その戦略および戦術に対して優れた対応力を備えた理想的な軍人は、政治家に対しては如何に向き合うべきであるか、

 政治は国家政策の種々の目標を取り扱う。この分野における任務遂行能力は、何かある決定を下す際、その決定に必要となる種々の関連事項と利害関係について広い認識を持っているか否かに懸っている。また同時にこのような決定を下すのに必要な合法的権限を持っているか否かに懸っている。

 政治は軍の能力の及ぶ範囲を超えたところにある。従って将校が政治に関与すれば、自らのプロフェッショナリズムを蝕み、プロフェッショナルな能力を殺ぎ、内からプロフェッションを分裂させ、ひいてはプロフェッショナルな価値観を異質の価値観に置き換えるような事態を招くことになる。将校は政治的に中立不偏でなければならないのである。

 軍事科学の分野は政治の分野に従属しているが、それでも政治の分野から独立している。ちょうど戦争が政治目的の実現のために貢献するのと同じように、ミリタリー・プロフェッションは国家目的の実現のために貢献する。それでも政治家は、ミリタリー・プロフェッションと自らの主題とすることの間の整合性を認識しておかなければならない。

 軍人は政治家に対して政治的嚮導(ガイダンス)を期待する権利を持っており、自律的プロフェッションがこのように政治目的に対して適切に従属しているとき、シビリアン・コントロールが実現することになるのである。


)国家に対する軍人の責任
 引き続きハンチントンは、政治目的に対して適切に従属している軍人が、国家に対して如何なる責任を負っているのか、極めて具体的に示していく。以下、枠線ボックスとして纏めておこう。

国家に対する軍人の責任

 国家に対する軍人の責任には次の三種類がある。第一に軍人は代議的(リプレゼンタティブ)機能―国家機構の中で軍事的安全保障に関する諸要求を代表するという機能―を担っている。軍人は他の強国の兵力を考慮に入れて、自国の軍事的安全保障に最低限必要と考えられる兵力を、国家の関連機関に常に認識させなければならない。自らの見解をどの範囲の機関まで提示すればよいかを明確に示すのは難しいが、一般に軍人は自らの見解を、行政府、立法府に関係なく、軍と軍以外の組織間の資源の割当てに責任を負う公的機関に提示する権利と義務を負っている。

 第二に将校は諮問的機能軍の観点から国家の方策に関する代替策の内容を分析し報告する機能―を担っている。例えば国の指導者が三案の可能な政策を検討している場合を想定すると、もちろん軍はどの案が最も望ましいかを判定することはできない。それでも軍は第一案は現在手の内にある戦力で簡単に実行できるであろうということ、また第二案はかなりの戦力の増強がない限り重大なリスクを伴うということ、そして第三案は国家の軍事能力をはるかに超えており効果的に実行するのは不可能である、という程度の意見具申はできるであろう。

 第三に将校は執行機能を担っている。軍事的安全保障に関して国家が決定した政策を実施する機能であるが、彼はたとえそれが自らの軍事的判断とまったく正反対の決定であったとしても、それを実行する機能を担っているのである。政治家は目標を定め、その目標を達成するために必要な資源を彼に割り当てる。そのあとその目標を達成するために最善を尽くすのは当然将校の責任となる。まさにこのことが、政策に対して軍事戦略が備えている本来の意味なのである。―「目指す目的達成のために、将軍が自らの自由になる手段を如何に実地に適用するか」ということが問題となるのである。

 明らかに戦略と政策が重なり合う領域が少なからず存在する。このような領域では、軍の最高指揮官が純粋に軍事的根拠に立って決定を下したとしても、結果的にその決定が、彼には未知の政治的な意味合いを持っていることがあとで判明する場合がある。このような場合、戦略上考慮すべきことに道を譲らなければならない。 

 軍人は、例えば交戦圏の選択のように一見して純粋な軍事上の決定事項と思われることが政治をも含んでいる場合がある、ということを認めなければならない。それ故軍人は状況に応じて政治家の嚮導を仰がなければならないのである。クラウゼヴィッツが語っているように、「兵法(アートオブウォー)はその最高の見地に立てば政策になる。しかしもちろん文書を作る政策ではなく戦う政策である」。

 国家の最高位の指揮官たちは必然的に、このような戦略と政策が渾然としている世界で活動することになる。彼らは自らの軍事判断が政治に与える影響について絶えず注意を払わなければならない。また政治家が出す最終決定を受け入れる心構えを持たなければならない

 軍人が自らの高官としての立場において、軍事および政治の両要因を内包する決定を下すことを求められた場合、彼は理想的には最初に軍事上の解決策を明確化し、そのあと必要ならば彼の政治顧問の助言を得て、それに変更を加えなければならない

以上、プロフェッショナルな軍の将校が国家に対して負う責任が極めて具体的に示された。実際の活動において遭遇する蓋然性が高い軍人と政治家のクリティカルな関係をこれほど明確に具体的に提示された例は稀である。

)軍における忠誠ロイヤリティーと服従 
 引き続きハンチントンは、プロフェッショナルな軍の倫理のあり方を論じていく。その最も枢要な部分―軍における忠誠ロイヤリティーと服従―に議論は入っていく。ここも枠線ボックスとして纏めておこう。

軍における忠誠(ロイヤリティー)と服従

 ミリタリー・プロフェッションは国家に奉仕するために存在する。考え得る最高の奉仕を提供するためには、全ミリタリー・プロフェッションとそれが率いる軍は、国策遂行の有効な手段となるべく構成しておかなければならない。政治的な指示は最上部からのみ出されるため、ミリタリー・プロフェッションは服従オベディエンスに適した階層構造に構成されていなければならない。ミリタリー・プロフェッションがその機能を発揮するためには、その中に存在する各レベルは、従属するレベルの即時かつ忠実な服従を強いることができなければならない。このような関係が欠如していれば、ミリタリー・プロフェッショナリズムは成立し得ないのである。

 従って忠誠ロイヤリティーと服従は軍の最高の美徳となる―「原則としての服従は単に軍の美徳の一つを表すものに過ぎないが、他のすべての美徳はこれに懸っている・・・」。軍人は、権限を持つ上官から合法的な命令を受けた場合、それに反発したり、躊躇したり、自分の考えを代用したりはしない―即座に服従するのである。軍人は、自らが実行する方策の如何によってその良し悪しを判断されるのではなく、むしろそれを実行する敏速性と有効性によって判断される。                                                                                                                                                                                                                                          

 軍人の目指すところは服従という道具に熟達することである―その道具を如何に用いるかは、軍人の責任の範囲外にあるのである。軍人の最高の美徳は道具になることであって、最終結果にあるのではない。シェークスピアのヘンリー五世に登場する軍人と同じように、彼は王の大義の正当性を本来「知る」べきであるとか「詮索」すべきであるとか考えない。何故ならば、たとえ王の「大義が間違っていたとしても、王に対する我々の服従が王の罪を拭き取ってしまう」からである。

 将校団が如何にプロフェッショナルとしての特性を身に付けるかは、その将校団の忠誠が如何に軍の理念となっているかに懸かっている。これ以外の忠誠はすべてその場限りのもので、争いを巻き起こす類のものである。

 軍の中では、プロフェッショナルな能力の理想像に対する軍の忠誠のみが不変的かつ統一的なものであるそれは「すぐれた兵士」の理想像に対する各個人の忠誠であり、「最高の連隊」の伝統と精神スピリットに対する各部隊の忠誠である

 最も有能な軍と最も力のある将校団は、政治的またはイデオロギー的目的によってではなく、これらの理想像によって動機付けられ、自らの行動を律する人たちである彼らがこれらの軍の理想像によって動機付けられているときに限り、軍は国家の従順な召使いとなり、シビリアン・コントロールが確かなものとなるであろう

「すぐれた兵士」、「最高の連隊」について

 ここで、「すぐれた兵士」、「最高の連隊」は、軍の部隊の歴史の中で伝統的に築かれる理想とする軍人像、部隊像を表す。軍の理念を形成するうえで最も枢要な倫理項目である忠誠ロイヤリティーと服従を象徴する表象である。

 この表象は、ミリタリー・プロフェッショナリズムにおいては、「プロフェッショナルな能力の理想像」に対する軍の忠誠を表すのに対して、旧日本軍においては、ハンチントンが指摘するように、「天皇の権威とサムライの規範ー国家シントー(神道)とブシドー(武士道)」に対する軍の忠誠を表していた。戦後発足しすでに三四半世紀を迎えようとする自衛隊において、この「すぐれた兵士」と「最高の連隊」が表す忠誠の対象は何であろうか。

(Ⅴ)服従の限界
 ハンチントンは引き続き服従の問題を掘り下げていく。服従の限界は何処にあるか、という軍人にとって極めてクリティカルな問題である。重要な事項であるので枠線ボックスとして纏めておこう。 

服従の限界

 軍の最高の美徳は服従である。しかるに服従の限界は何処にあるのであろうか? この問いには次の二つの異なる相互関係がかかわってくる。第一は、軍の服従とプロフェッショナルな能力との間の関係、すなわち将校の倫理にかかわる徳目と知性にかかわる徳目の間の対立関係に関するものである。第二は、軍の服従の価値観と非軍事的な価値観との間の対立に関するものである。

(1)軍の服従対プロフェッショナルな能力の対立(軍事組織内の対立) 

 軍の服従とプロフェッショナルな能力(コンピテンス)の間の対立は通常、上官に対する部下の関係を意味する。それは一般に大きく分けて次の二種の問題、作戦上および信念・信条上の問題として起こる。

(ⅰ)上官と部下の作戦上の対立

 前者の作戦上の対立の問題は、一人の部下が自身の判断では軍事的に大敗北に終わると思われる命令を遂行する場合の問題である。彼が自らの否定的見解を上官に伝えるが、上官があくまで自身の命令に固執する場合、または部下が自身の見解を提示する機会を持てない場合、それでもその部下は上官の命令に服従しなければならないだろうか? 

本来服従の趣旨は上官の目的を推進することである。部下が上官の目的を熟知しており、しかもその上官には知られていない周辺状況があって、そのため命令違反をする以外にその目的を達成することができないような場合、その部下の命令違反は正当化されるであろう。しかしこのようなことはめったに起こらない。

通常、作戦命令に対する不服従によって引き起こされる軍事組織の混乱の方が、服従した場合得られる利益より重大である。上官はより高い能力と知識を持っていることを当然と思わなければならないのである。作戦においては、とりわけ戦闘においては、即座の服従は軍の能力(コンピテンス)と対立してはならない―これが軍の能力(コンピテンス)の本質である


 ここでハンチントンは、作戦命令に対するネルソン提督の不服従の古典的な例を提示している。上官の命令に対する絶対服従を旨とする軍人に対して、深い現実的な示唆が含まれている。

作戦命令に対するネルソンの不服従

 作戦命令に対する不服従の古典的な例にネルソン卿の事例がある。彼はあるとき次のような根拠に基づいて彼の行動を正当化した―「私は行動するときほとんど何も考えない。それは命令服従こそが理想であるからである。しかし上官が何を指示したとしても、いま何が私の鼻先で起こっているか、彼は予め分っていただろうか? 私は国王に奉仕すること、そしてフランス軍を撃破することがすべての命令の中で最重要命令であると考える。その中から重要度の低い命令が出てくるが、その内の一つが最重要命令に不利に働くならば、私は元に戻ってその最重要命令に従って行動する」。A. T. Mahan, The Life of Nelson (Boston, 2 vols.,2d ed. rev., 1900), I, 56-63, 189-191, 445-451, II, 89-92, and Retrospect and Prospect (Boston, 1902), pp. 255-283.

(ⅱ)上官と部下の信念・信条の対立

 プロフェッショナルな能力と軍の服従との対立に関して第二に考えられるのは、作戦上の問題ではなく、信念・信条上の問題である。硬直して柔軟性を欠く服従は新しい考えを抑圧し、進歩のない決まり切った仕事に対する奴隷状態をもたらすであろう。

 軍の最高司令部が、過去にしばしば思考停止状態に陥り、戦術や技術の分野における厄介な新規開発を抑制するため、軍の階級組織固有の影響力を利用する例が見られた。このような状況において、下位の将校が、プロフェッショナルな知識を発展させようとして上官に背く場合、その行為はどの程度正当化されるのであろうか? この問いに対する答えは簡単ではない。上官の権限は上官のプロフェッショナルな能力を反映していると考えられるからである

 下位の将校が、各種の教本類の中に体系化されている理論よりも自らの理論の方に明確な優越性があると判断する場合、思慮深く事を運ばなければならない。特に下位の将校が、新技術の導入の闘いにおいて自らの成功を信じている場合、その導入を強行したときもたらされる、指揮系統の混乱による軍の効率の低下が、導入によってもたらされる効率の向上で、埋め合わせ可能か否か、考慮しなければならない

 もし埋め合わせ可能ならば、彼の不服従は正当化されることになる。要するに最終的には、プロフェッショナルな能力が究極の判断基準とならなければならないのである

 最後に、最も困難な服従の問題が論じられる。軍の立場から見て到底受け入れがたい政治家の命令に直面したとき、軍人は如何に対応するのか、最もクリティカルな状況が突き付けられる。

(2)軍の服従対非軍事的価値観(軍事組織対政治の対立) 

 第二の問題は非軍事的価値観に対する軍の服従の関係に関するものである。ある将校が、結果的に国家に災難をもたらすと分っている方針に従うよう政治家に命じられた場合、将校の責任とはどのようなものであろうか? あるいは彼がはっきりと国法を犯すようなことを命じられた場合はどうであろうか? さらには彼が一般に受け入れられている道徳の基準をはっきりと破るようなことを命じられた場合はどうであろうか? これらの問題は次のような四つのグループに分けて考えられるように思われる。

(ⅰ)軍の服従と政治的見識との対立
 第一に、軍の服従と政治的見識との対立の問題がある。・・・・政治家が全くの政治的愚行と思われる方針を推し進める場合、軍の指揮官は政治的見識の種々の基準に訴えることによって、それに抵抗することが正当化されないだろうか? 下位の将校が上官に「抵抗する」場合と今回の事例には大きな違いがある。先の例における軍の効率の基準は、数が限られていて、具体的で、比較的客観的である―それに対し今回の政治的見識の基準は、範囲が無際限で、曖昧で、高度に主観的である。政治は一種の芸術であるが、軍事科学はプロフェッションである。将校が理性のある人間に対して、自らの政治的判断が政治家のそれよりましであると証明できるような、一般に認められている政治的な価値観などは本来存在し得ないことである。従って政治家の上位レベルの政治的見識は一つの事実として受け入れなければならないのである。軍人から見て、結果的に国家の破滅をもたらすことが分っているような戦争を政治家が決定するならば、そのとき軍人は自らの意見を具申したあと、その思わしくない状況に立ち向かい、悪条件の下で自らの最善を尽くさなければならないのである。

 例えば一九三〇年代後期のドイツ軍の司令官たちは、ヒトラーの外交政策が結果的に国家の破滅をもたらす、とほぼ一致して考えていた。しかし同時に司令官たちは、本来の軍の義務として、ヒトラーの命令を実行しなければならない立場にあった―そして司令官たちの多くはこの決まりに従った。だが、中に自身の政治目的を追求するため、プロフェッショナルなおきてを放棄した司令官も存在していた。マッカーサー将軍がアメリカ政府の朝鮮戦争の遂行方針に反対したのは、本質的にこれと同じ範疇の行為であった。ヒトラーに対する抵抗に加わったドイツ軍将校、それにマッカーサー将軍は、戦争と平和の問題を決定するのは将校の任務ではない、ということを忘れていたのである

 次のケースは、政治家が純然たる軍の領域を侵害する場合である。

(ⅱ)軍の服従と軍の能力との間の対立
 第二に、そしてもう一方の極端なケースとして、軍の能力が政治的上位者によって脅かされるとき、軍の服従と軍の能力との間の対立が生じる。将校が政治家から軍事的に見て不合理な対策を講じるよう命じられた場合、しかもその対策が政治との関連性を全く持たない軍の領域にある場合、将校はどうすればよいのであろうか? 

 もし政治家の命ずる対策が確かに軍の領域内にあり、しかもそれが政治とは完全に無縁であるとするならば、この状況は、プロフェッショナルな領域が外的な動機によってはっきりと侵害されたことを示している。軍の上官が疑問の余地のある命令を下す場合に存在していた上官のプロフェッショナルな能力の前提は、政治家が軍事に立ち入るこの場合には存在しない。従ってこの場合、プロフェッショナルな基準(スタンダード)が存在するという事実が、軍の不服従を正当化することになる。ヒトラーが第二次世界大戦の後期に見せたように、政治家が戦闘中の大隊を前進させるべきか撤退させるべきかを決定するのは、本来お門違いなのである。

(ⅲ)軍の服従と合法性との間の対立
 第三に、そして上記の二つの極端な事例の中間に位置するものとして、軍の服従と合法性との間の対立がある。将校が法的権限を持たない文民の上司から出された命令を受ける場合、将校はどうすればよいのであろうか?

 政治家が将校に命令を出すとき、政治家自身が自らの行動の不法性を自認しているならば、将校の不服従は正当化される。政治家が自らの行動の合法的を主張し、一方その行動が将校には違法に見える場合は、問題は何が合法で何が非合法であるかを判断する将校と政治家の能力の問題となる。

 一般に近代国家には裁判官もまた存在している。その判決が示されるならば、将校はそれを受け入れる義務がある。緊急事態にあるため、あるいは裁判官自体の合法性がはっきりしないため、これが不可能ならば、結局将校にできることは、その状況に適用できる法律を周到に調べ、しかる後彼自身の決定に漕ぎつけることである。・・・・いずれにせよ将校は、政治家の考え方の正当性について、少なからず調べる義務がある。

(ⅳ)軍の服従と基本道徳との対立

 最後に、軍の服従と基本道徳との対立がある。将校が政治家から、占領した領土内にいる人間を殲滅するため、大量虐殺を実行するよう命じられた場合将校はどうすればよいのであろうか? 

 種々の倫理基準を評価、適用する能力に関する限り、政治家と軍人は同等の立場にある。両者とも道徳的に自らの行動に責任を負う自由な個人である。従って軍人は、最終的な道徳上の判断を下す自身の権利を文民に譲り渡すことはできない。彼は一人の道徳的な人間として、自己を否定することはできないからである

 それでも問題はこのように簡単に割り切れるものではない。何故ならば、基本道徳のみならず政治がこの問題にかかわってくるからである。政治家というのは国家の政治的な利益拡大を目論むあまり、世に広く受け入れられている道徳観に背を向けるよう強要されていると感じることが往々にしてある。実際このようなことはしばしば現実に起きている否定しえない事実である。

 このように政治家が国家的理由レゾンデターのために、個人の良心の要請を無視することがあるとしても、彼は軍人までをも巻き込み、自身の良心はもとより、実質的に軍人の良心までをも服従させることに、正当な理由付けが見出せるのであろうか? 将校にとってこのことは選択の問題となる。

 一方に彼自身の良心があり、他方に国家の利益と、それに加えてプロフェッショナルな服従という徳目がある。一人の軍人として彼は服従の義務を負う―一方一人の人間として彼は不服従の義務を負う。しかし結局最も・・極端・・除く・・して・・、軍人はプロフェッショナルな倫理を固守し服従することが当然期待されるのである。軍人が軍の服従と国家の繁栄という二重の要求に逆らって、個人の良心の命ずるところに従うことで正当化されることは稀にしかないことである

 ここで、「最も・・極端・・除く・・して・・」について触れておきたい。

最も極端な例についての一考察

 占領した敵国の領域内にいる人間の大量虐殺を図るような、道徳の規準にもとる行為を命じられた場合に対しても、ハンチントンは「軍の服従と国家の繁栄という二重の要求に逆らって、個人の良心の命ずるところに従うことで正当化されることは稀にしかない」としている。

 ただここには「最も極端な例は除くとして」という但し書きが付けられている。この「最も極端な例外」とは何か? ここには示されていない。しかしハンチントンは別途、ドイツの軍の歴史を検証する後の第五章第二節「ドイツ―プロフェッショナルな軍国主義の悲劇」において、「軍における神々の黄昏(Gotterddammerung)」と題して、伝統的なプロフェッショナリズムを追求したドイツ軍将校が、ナチス・ドイツの中でヒトラーの独裁に対峙した厳しい状況を論じている。

 プロフェッショナリズムを論じるうえで極めて重要な部分であるので、全文を紹介しておこう。

 軍における神々の黄昏(Gotterddammerung) ナチスの軍への勢力伸張に対して、軍の反応の仕方は三通りに分れた。第一は、ナチスの誘惑に屈してプロフェッショナルな考え方を捨て、ナチスの考えを受け入れ、その結果政府によって相応に報われたグループである。

 もう一つはハマーシュタイン・エクヴォルト(Hammerstein Equord)、カナーリス(Canaris)、ベック、アダム、ヴィツレーベン(Witzleben)、それに七月二十日の共謀者のほとんどを含むものであるが、ヒトラーとその政策に積極的に反対する政治的役割を果したグループであった。

 これら両グループは、政治のためにプロフェッショナリズムを捨てたのであるから、彼らを判断するにはプロフェッショナルな基準によるのではなく、政治的な基準による方が適切である。この観点から見れば、前者はドイツ国家社会主義の犯した罪に加担したことになる―一方後者は一般に最高の人道的、キリスト教的理想が動機となって行動したことになる

 将校団の大半はいずれにせよ、特別な政治的願望を持って行動していた訳ではなかった。単にプロフェッショナルな道を正しく歩もうと望んでいたに過ぎなかったのである。ナチス体制の初期段階においては、このような行動を取ることはまだ可能であった。将軍たちは軍人として職務を遂行し、軍人として警告を発し、さらにそれが却下されたときは、軍人として義務を果たしていた。しかしフリッチュの追放後は軍の役目を果すこと自体が不可能となった。将校団の権威が侵害され、自律性が破壊されたことで、解決できないような葛藤が生み出されるに至ったのである。


 第二次大戦前夜、「徹頭徹尾プロフェッショナルな軍人」であったドイツ陸軍最高司令官フリッチュは、ゲーリングとヒムラーによる陰謀に巻き込まれ、最終的に多数の将官と連隊司令官の一大淘汰と共にその職を追われた。ヒムラーに決闘を挑もうと考えていたフリッチュはしかし、昔在籍していた連隊の名誉連隊長の称号を得、「自ら第二次大戦開戦の最前線へ従軍志願し、ポーランド軍の機関銃火の中に身を曝し、歩いて進撃し、そして斃れた」のである。

 軍の規範は完全なる服従もまた完全なる反抗も許さなかったのである。国家の指導者に従うというプロフェッショナルな義務が、国家の安全保障に対して負うプロフェッショナルな責任と相容れないがために、葛藤が生じたのである。「私は軍人である―服従は私の義務である」とブラウヒッチは主張している。同じように正当な軍の論理を信奉する人の中に、これと反対の立場に立つ人もいた―「戦時中最高位の司令官たちでさえも」と、シュパイデル(Speidel)は述べている、「神と良心に与えられるべき服従と、人間に与えられるべき服従の違いを、必ずしも常に区別することができていなかった」。従って将軍たちは絶えず煩悶していた―不服を申し立てる理由がないときは服従し、手に負えない政策は可能ならば妨害し、ある場所では妥協し、別の場所では黙従し、耐え難き状況に立ち至ったときは辞任し、そのうえさらに悪化したときは再び義務の要請を受け入れていた。

 政治的に見れば、このような行為には何ら輝かしいものはない。とはいえ彼らは、政治家として行動しようといていた訳ではなかった―彼らは政治から逃避していたのである。従って政治的基準を持ち出して彼らを評価するのは適切なことではない。実際は彼らは、プロフェッショナルな軍人として行動しようとしていたのであるから、彼らを評価するには軍人の基準を適用すべきである。かくしてこの判定基準に照らせば、彼らはうまくやってのけたことになる。

 悪が彼らの中にあった訳ではなかった。悪は軍人の信条に従って生きることを許さなかった環境の中にあったのである。彼らはその軍人の信条に背くことなく、また彼ら自身の中にある善なるものを破壊することなく、環境の中にある悪を破壊することができなかったのである。ドイツ将校団の栄光と悲劇は、彼らが自らの信条をユダヤ人大虐殺によって完全に破壊されるまで信奉したことにあった


 軍人がプロフェッショナルな倫理を固守し服従する限界は自ずと明らかである。

 以上ハンチントンは、第2-2-1節から第2-2-3節にかけて、軍の精神をプロフェッショナルな軍の倫理として定義し、軍の理念の本質に到達しようとする試みを進めてきた。その結果プロフェッショナルな軍の倫理として集約された軍の精神は、端的にして簡明である。

まとめ―保守的な現実主義

軍の倫理は人間の本質の中にある不変性、不合理、弱さ、そして悪を強調する。

また個人に対する社会の優位性を力説し、同時に秩序、階級組織、任務の分割の重要性を力説する。

さらに歴史の連続性と歴史の価値に重きを置く。

国民国家を政治機構の最高の形態と考え、国民国家間で戦争が持続する可能性を認識している。

国際関係における力の重要性を強調し、国家の安全保障に対する脅威を警告する。

国家の安全保障は強力な軍の創設と維持に懸っていると考える。

国家の直接的利益のために行う国家活動を制限すること、大規模なかかわり合いに巻き込まれることを抑制すること、さらに好戦的、冒険的な政策の望ましくないことを強く訴える。

戦争は政治の手段であり、軍は政治家の召使い(サーバント)であり、シビリアン・コントロールはミリタリー・プロフェッショナリズムにとって必須の要件であると考える。

また服従は軍人の最高の美徳であると称揚する。

 かくしてミリタリー・プロフェッションの観点から見た軍の倫理は、悲観的であり、集団主義的であり、歴史傾斜的であり、権力志向であり、国家主義的であり、軍事優先主義的(ミリタリスティック)であり、平和主義者であり、そして道具主義者である。要するに軍の倫理は現実的で保守的である。

※道具主義(instrumentalism)。後期プラグマティズムを代表するシカゴ学派の思想家 J・デューイが主張する認識論上の立場。概念や判断は、人間が環境に適応して行動する際の現実的解決の道具であるとみなし、それが現実に適用された場合有効であれば、その概念や判断の真否とは無関係に、それは道具として適正であるとする説。極端(・・)(・)(・)(・)除く(・・)(・)して(・・)