南北戦争前に南部で開花した軍事思想としてのミリタリー・プロフェッショナリズムの原型は、南北戦争の敗北がもたらした南部保守主義の崩壊と共に忽然と姿を消すことになった。しかし南北戦争後、アメリカ社会のすべてが軍に対し徹底的な敵意を示した、いわゆる「軍の歴史における最悪期」において再度立ち上がることになる。
一.ビジネス平和主義の優位性―産業主義対ミリタリズム
一八六五年の南部の敗北は、以後の数十年間にわたって、合衆国にまれに見るようなイデオロギーの均質化をもたらした。西洋社会の歴史において初めて、資本家の利益と大衆の利益の融和が実現し、ビジネス自由主義の理想と哲学、個人主義、ホレイショー・アルジャー(アメリカン・ドリームを描いた小説家)の信条が、国家の理想と哲学となり、アメリカ社会のすべての重要な勢力に受け入れられ、支持されるようになった。
ここで「ビジネス自由主義」とは、いわゆる一般的概念としての古典的自由主義に相当する用語としてハンチントンは用いている。個人の自由放任(レセフェール)と財産権等の強調、政府の権力の最小化を主張する経済学的・政治的思想である。このビジネス自由主義が、軍事問題に対してとったアプローチを、ハンチントンは次のように表現している。
自由主義経済というビジネス倫理の名のもとに、アメリカ社会が軍事問題に対して採ったアプローチの仕方は、驚くほど首尾一貫していて明快であり、実際幾つかの点でそれは、シビル・ミリタリー・リレーションズに関して、アメリカの自由主義が産み出した唯一の明確な理論であった。この理論の基本的な骨子は「ビジネス平和主義」と呼んでよいものであるが、当時の指導的な思想家たちに受け入れられ、大衆の心にも深く浸透していった。
この運動を主導したのは政治哲学者ハーバート・スペンサーであり、当時の最も華々しい大富豪、ぼろから巨万の富を築くホレイショー・アルジャー伝説の化身である、アンドリュー・カーネギーであった。
ハンチントンによれば、このビジネス平和主義は基本的に、アメリカ独自の三つの重要な起源、プロテスタントの道徳観、伝統的な経済自由主義と功利主義、それに「最も驚くべきもの」として社会進化論―生産効率を経済競争における適者生存の基準と位置付ける―に基づく理論であり、軍事問題に対して「驚くほど首尾一貫していて明快な」アプローチをとるものであった。
これら三つの重要な起源が結び付いた結果、軍事問題に対して特有の考え方が新たに台頭してきた。それは人間社会の二つの基本形態を仮定する主張であった―一つは、好戦的もしくは軍事優先主義的形態であり、戦争を主たる目的として組織化される社会である。もう一つは、産業的もしくは平和的形態であり、生産的な経済活動を主たる目的として組織化される社会である。
アメリカは、先にも触れたように、独立革命以来終始自由主義がアメリカ人の考え方を支配してきた国家であるが、当初から軍とくに常備軍に対して強い敵意を示す国であった。ハンチントンはその理由を次のように説明している。
常備軍、すなわち上流階級の将校と下層階級の下士官兵よりなる軍事組織は、基本的に貴族的な制度であり、イギリス王政やヨーロッパ独裁政治において形成されたものであった。多くのアメリカ人の目から見ると、この形態の軍事組織はアメリカでは全く不必要なものに映っていた。というのもヨーロッパからアメリカまでの距離を考えると、たかだかインディアンを相手にするための少数の辺境守備隊を置いておけば十分であり、国防のための恒久的な軍は不要と考えられていたからである。
常備軍に対するその敵意は時代と共に変遷し、ジェファーソン大統領時代における常備軍の限られた機関への敵意から、ジャクソン大統領時代以降における特権的社会集団としての軍全体に対する敵意へと変化して行った。さらに南北戦争終結後のビジネス平和主義の時代には、
今やビジネス平和主義は更にそれを拡張し、もはや争いの対象が一機関とかあるいは一社会集団ではなく、完全に異なる二つの社会形態の間の基本的な争いへと広げたのである。その最も拡張された形態においては、産業主義とミリタリズムの間の対立は更に拡大され、経済と政治の間の幅広い敵対の構図にまで広げられることになった―軍事優先主義的政権が権力と繁栄を我が物にするため、独断的、非合理的な行動を採ろうとするのに対し、経済界は幸福を最大化するため、科学的、合理的にその目的と方法を決定しようとする、この二者間の争いに広げられたのである。ミリタリズムと産業主義の間の対立の構図は、十九世紀末の知的世界ではもはや論争の余地のない確固たる定説となり、すべてのビジネス平和主義の思想家によって支持されるようになった。
その結果、アメリカ社会のすべてが軍に対し徹底的な敵意を示すことになったのである。
二.孤立の歳月―暗と明
ビジネス平和主義が隆盛を迎えていたため、一八六五年以降のシビル・ミリタリー・リレーションズの支配的な特徴は、事実上アメリカ社会のすべてが軍に関する事実上すべてのものに対し、徹底的かつ仮借なき敵意を示したことを映し出すものとなった。軍に好意的な保守主義の拠点が南部の敗北と共に消え去り、アメリカ社会の全面的敵意が、軍を政治的に、知的に、社会的に、さらに物理的にも、社会から―しかも軍が奉仕する社会から―孤立した状態に追いやってしまったのである。
一八七一年の陸軍の経費は南北戦争時の三・五%にまで削減され、海軍の経費は一八九〇年過ぎまでその陸軍の六割以下に抑えられていた。その結果アメリカの軍は荒廃状態と表現されるまでに追い込まれることになった。
総じて一八八〇年までは、合衆国海軍は艦隊として機能することが不可能な旧式艦艇の不釣合いな集まりに過ぎなかった。また合衆国陸軍も広範囲に散在するインディアンを追いかける辺境の警備隊に過ぎず、この任務には熟達していたが、これ以上に重要な作戦には全く対応できず、またその準備もできていなかった。要するにビジネス平和主義は軍を錆び付いた荒廃へと追い遣ったのである。
しかるに、このアメリカの軍の最悪期に、アメリカ軍の将校たちは輝かしいページを開いて行くことになる。
歴史家たちはこの南北戦争後の軍の孤立、排斥、そして縮小を、アメリカの軍の歴史における最悪期と評しており、この時代を「陸軍の暗黒時代」あるいは「海軍の沈滞期」という用語を用いて表現している。しかしこれらの言葉は軍の社会的影響力と政治権力に関してのみ当てはまることであって、歴史家たちは単に、文民と軍との間の関係を表す方程式の片側だけを見ていたに過ぎないのである。何故なら、軍の規模を縮小し、技術的進歩を妨げた孤立と排斥そのものが、まさしくこの時代をアメリカの軍の歴史の中で最も豊かで、創造的で、成長を後押しした時代としたからである。
社会から排斥され、ひたすら自己を見詰める中から新たな道を見出して行ったアメリカの将校たち、ハンチントンは次のように表現している。
将校団は自らの権力と影響力の拡大を犠牲にして、自分自身の固い殻の中に閉じこもることで、独自の軍の個性を確立し、それを社会に認知させることができたのである。アメリカのミリタリー・プロフェッション、その制度、その理念は基本的にこの時代の産物である。アメリカのミリタリー・プロフェッショナリズムの前途と、アメリカの軍の精神の本質を形成することにおいて、他の如何なる時期もこれほど決定的な影響を与えたことはなかった。プロフェッショナルな改革の実際的な活動は、軍が南北戦争前に南部とかかわりを持っていた間は頓挫していたが、一旦一般社会とのすべての絆を断たれることによって、それが可能となったのである。広く社会に行き渡った軍に対する反感が、軍が一定の支持を得ていたときできなかったことを可能としたのである。
さらにハンチントンは、これを可能とした特別の条件を次のように示している。
しかるにこの前進をもたらすことを可能にした背景には、国家の安全保障に対する重大な脅威が当時一切存在しなかったという事実の存在があった。軍の孤立はプロフェッショナル化の前提条件であり、平和は孤立の前提条件であったのである。逆説的なことであるが、合衆国がプロフェッショナルな軍を創設することができたのは、この軍の戦力を直接行使する必要のない時期においてであった。要するに軍の政治的影響力の暗黒時代は、ミリタリー・プロフェッショナリズムの黄金時代であったのである。
この軍の暗黒時代が合衆国にもたらした果実を、ハンチントンは次のように締め括っている。
十九世紀末に軍が一般社会から身を退いたことによって、卓越したプロフェッショナルの高度な規範を作り上げることが可能となったが、この高度な規範は、後の二十世紀の戦いにおいて、国家の勝利を獲得するために必要な基本的な要素となった。
もし将校団が排斥されていなかったならば、またもし陸軍と海軍が一八七〇年代と一八八〇年代に予算を骨の髄まで切り詰められていなかったならば、合衆国は一九一七年と一九四二年にもっとずっと困難な時を迎えていたであろう。
孤立して過ごした歳月は、軍の将校を大多数の同国人と基本的に異なる価値観と考え方を身に付けたプロフェッショナルに作り変え、そしてその歳月は彼の魂にコミュニティーの魂から失われていた鋼を打ち込んだのである。
二度の世界大戦において、軍の先頭に立って作戦を指揮したプロフェッショナルな将校たちの能力、そしてその目を見張るような戦歴、それは十九世紀の終わりに彼らが排斥されたが故にもたらされたものであった。それは排斥されたにもかかわらずもたらされたものではないのである。
軍の孤立―アメリカと日本
軍に対する社会の脆弱な支持基盤は、軍におけるプロフェッショナリズムの強固な存立基盤を築く基礎となるという歴史的事実、言い換えれば、軍の孤立はプロフェッショナル化の前提条件であるというアメリカの実例を我々は忘れてはならない。 厳しい排斥の歴史の中でアメリカ軍が築き上げたプロフェッショナリズム、その果実を二十世紀の二度の世界大戦で示した輝かしい戦歴、これに対しハンチントンが示す高い評価は、我々に多くのことを語りかけて来る。
南北戦争後のアメリカ社会を支配した「ビジネス平和主義」がアメリカの軍に対して示した徹底的な敵対的姿勢、対して太平洋戦争後の日本社会が自衛隊に対して示し続けた国民的な否定的姿勢、一般社会と軍の関係において両国には明確な共通項が存在している。
しかるに、プロフェッショナリズムを基本とする倫理的な価値観・姿勢・考え方―プロフェッショナルな「軍の精神」―を身に付け、プロフェッショナリズムを基本とする安全保障体制を築き上げる目標に向け、両国は全く異なった道を歩んでいる。図らずもハンチントンの予測は正鵠を射ていたことになる。改めてそれを示しておこう。
日本のシビル・ミリタリー・リレーションズの将来
軍が政治へ持続的に関与するという形態は、一九四五年の日本の将校団の壊滅と共に終焉を迎えることになった。国家は完全に一新され、敗戦後の八年間は、日本に存在する唯一のシビル・ミリタリー・リレーションズは、アメリカの占領軍と日本の文民組織との間に存在するものだけとなった。また、主権を回復した直後の日本は、未だ取り立てて問題にするほどの軍を保有している、と言えるような状況ではなかった。従って、実質的なシビル・ミリタリー・リレーションズは存在しなかったと言ってよい。
だが、この状況がいつまでも続くことはあり得ない。日本が新しい軍事制度を創設する際に白紙状態から始められることは、ある意味通常では見られない自由度を手にすることになる。しかし日本の指導者たちは、昔の将校団の政治的特質と、その惨憺たる帰結をよく認識している。そのため、新将校団に対しては完全なる政治不干渉を強く主張することが十分考えられる。
一方で、日本の現代のイデオロギーは著しく平和主義的である。それは戦前の好戦的ナショナリズムとは著しく異なっているが、戦前と同じようにミリタリー・プロフェッショナリズムに対しては敵対的である。そのうえ、プロフェッショナルな軍の伝統の欠如と、アメリカ的な考え方と慣行の影響を受けたことが、不偏的シビリアン・コントロールの実現を一層複雑化しているように見える。シビル・ミリタリー・リレーションズの方式として、一九四五年以前に優勢であったものとは外観上は異なるが、本質的には異なることのない形態が日本に出現する可能性が高いように思われる。
以上原著の第五章三節 日本―一貫した政治的軍国主義
ハンチントンはこのあと、アメリカの兵学校生徒、初・中級クラスから上級クラスに至る幅広い将兵が、アメリカ社会の徹底的な敵対姿勢に向き合って歩んだ苦難の歴史的過程を周到に検証して行く。
三.創造的な中軸―シャーマン、アプトン、ルース
ハンチントンは、アメリカの軍のプロフェッショナル化の中心的役割を担った三人の将軍の名を挙げて、改革の歴史的過程を詳細に検証して行く。
アメリカの軍のプロフェッショナル化は、優れて南北戦争後の二世代にわたる少数の将校たちの功績に負うものであった。その過程はウィリアム・T・シャーマン将軍、エモリー・アプトン将軍、それにスティーブン・B・ルース海軍少将によって創始されたが、アメリカのプロフェッショナリズムとしていち早く実現された形態は、総じて彼ら自らが創り出したものであった。
シャーマンは三人の中で最も広く知られているが、その大衆的な名声は、ほぼ全面的に彼の南北戦争における軍功に基づいている。南北戦争終結後の一八六九年から一八八三年のほぼ十五年間、彼は陸軍総司令官の職に就いていた。彼は南北戦争から一八九一年の彼の死に至るまで、すべての世代の軍人や一般人にとって、中核的な軍の名士として存在し続けた。政界進出によって大統領となったあと物議を醸したグラント将軍と違って、シャーマンは政治とは一切かかわりを持たなかったがために、軍人としての人気を堅持した。
グラントは第十八代大統領となったあと、政権内の度重なる汚職・腐敗スキャンダルや、戦後の南部再建政策に対する国内の疲弊が広がり、批判の矛先に晒された。
一方シャーマン将軍は、南北戦争の初期段階に過労とストレスによる一時期静養を余儀なくされたあと、復帰しジョージア州を焦土化した過酷な「海の進軍」作戦を指揮・強行、さらにサウス・カロライナ州からノース・カロライナ州へと熾烈を極める北上作戦を指揮し、北軍に勝利をもたらした。
シャーマンは、陸軍は平時においても「戦闘の体質と戦い方」を堅持するよう、常に「真の軍の原則に則って編制し、統治しなければならない」と主張していた。シビリアン・コントロールは、この目的を達成するために必須のことであった。民主的な方法は、陸軍には不相応なものであり、陸軍は本来「峻烈な機関であり、法を施行し、国家の名誉と尊厳を堅持するために、大統領の手中にある一手段」でなければならなかった。
シャーマンは軍を政治から隔離することを特別強固に主張し、「何時起こるかもしれない非常事態に備え、陸軍と海軍をできる限り政治から引き離しておかなければならない」、また政党政治に関しては「如何なる陸軍将校も自説を持ったり、述べたりすべきではない」としていた。
軍の倫理の基本要素―戦争に対する憎悪と政治の忌避が、最も引合いに出される次のシャーマンの二つの言葉に簡潔に言い表されている。「戦争は地獄である」、私は候補者に指名されても受けないし、選ばれてもならない」。
若手の将校アプトンは、世界の軍事制度に関する研究を進め、プロフェッショナルな軍の倫理の基本原理を追究し、シャーマンと共に陸軍の改革を推進した。
陸軍の改革の仕事で最も影響力の大きかった若手の将校はエモリー・アプトンであった。一八六一年にウェストポイントを卒業すると、南北戦争で名を上げ、義勇軍の少将に昇進した。戦後は陸軍の新しい歩兵戦術システムを整備し、一八七〇年から一八七五年までウェストポイントで学校長を務め、一八七六年と一八七七年に世界を歴訪の上、諸外国の軍事制度を調べ、続いてフォート・モンローの砲兵学校において理論教育の教育長を務めた。
彼の偉大な二冊の著書『ヨーロッパおよびアジアの陸軍』と『合衆国の軍事政策』は外国とアメリカの軍事制度に関する研究を纏めたものであるが、その中で彼は、プロフェッショナルな軍の倫理に関する基本原理を明確に示し、様々な改革の事例を具体的に提示している。
この著書のうち『合衆国の軍事政策』は、一八八一年に自ら命を絶った時点では未完の状態にあり、一九〇四年に到って初めて出版された遺作であるが、その内容はより精強な正規軍を実現するための力強い訴えに満ちている。その主張はシャーマンに支持され、その後、民兵擁護者との論争において、合衆国正規軍のバイブルとなったが、アプトン自身も一八七〇年代を通して改革運動の最前線に立って活動を先導した。
陸軍の改革と同時に、海軍のプロフェッショナル化の中心的役割を担ったルース提督は、シャーマンから強い感化を受け、アプトンと親交を結び、海軍のプロフェッショナル化に向けた改革運動を推進した。
一方アプトンと同世代の海軍軍人ルース提督は、一八六五年から一八六九年までアナポリスの学校長を務め、米国海軍協会を創設し、その会長を務め、そして海軍大学創設を推進した。
海軍のプロフェッショナリズム確立の精力的な改革者ルースは、政治関与と技術至上主義を否定する改革運動を展開し、海軍士官に対し自らの「真の本務―戦争」に集中すべきことを強く訴えた。彼の考えはプロフェッショナルな倫理を明確に表明したものであり、海軍将校団に長期に渡って影響を及ぼすことになった。
このルースについて第二世代の改革者フィスク提督は、「ルースの功績は偉大であると同時に単純であった―「ルースは海軍に考えることを教えた」と評している。
これら三人の改革は世紀の変わり目に第二世代の継承者に引き継がれた。陸軍のブリス、ワグナー、ヤング、カーター、海軍のマリアン、テイラー、フィスク、シムズたちである。それはあたかも、ドイツ軍のシャルンホルスト、グナイゼナウ、クラウゼヴィッツの改革が、モルトケ、シュリーフェンたちに引き継がれたのと相似の構図である。
アメリカのプロフェッショナル化の運動は、ヨーロッパにおける改革運動を範としながらも、ひたすら独自の道を追求し続けた特徴ある改革であった。
この創造的な中軸は三通りの意味で明確な特徴を持つ軍人であった。
(1)彼らは同時代のアメリカの一般人の影響をほとんど受けなかった。
(2)彼らは自らの考えとインスピレーションをアメリカの軍事啓蒙運動と外国の軍事制度から得ていた。
(3)彼らは陸海軍の壁を越えて相互に考えと刺激を伝え合い、陸軍と海軍の両方に適用できるプロフェッショナルな制度を発展させた。
アメリカの将校たちは社会から孤立し、これらの中核の先導のもと、自らのミリタリー・プロフェッショナリズムを自らの手によって築き上げて行く。
アメリカのミリタリー・プロフェッションが他国のものと異なっていた点は、それがほぼ完全に将校たち自身の手によって創り出されたものである、ということにあった。ヨーロッパでは、プロフェッショナリズムは通常社会全般に浸透していた社会的、政治的な思潮が生み出したものであった。プロイセンでは、政治家シュタインたちが国家のために行おうとしていたことを、単に陸軍の中で行ったものであった。
これに対して合衆国では、ミリタリー・プロフェッショナリズムは、厳密に自己導入的なものであり、一般人の寄与は事実上皆無であった。アメリカのプロフェッショナリズムは本質的に、自由主義社会に対する一保守勢力の反動的運動であって、社会の中での総体的な保守的改革運動が創り出したものではなかったのである。
ミリタリー・プロフェッションは、アメリカ社会とは関係なく創り出されたという点で、合衆国の 重要な社会制度の中で、おそらく独特な位置付けを占めている。こうした発祥の起源の中に、アメリカ人の敵意、「このプロフェッションを本質的に異質の組織体として忌避する態度」の証を見て取ることができるのである。・・・・将校たちは、改革者としてひたすら自らの孤独な道を歩み、市民社会から何の支援も受けず、市民社会についての知識もほとんど持たないまま、自らの仕事を成し遂げていった。彼らは、一般市民が許容した狭い制限範囲の中で奮闘し、曲がりなりにも彼ら自らが望んだ道を突き進むことができたのである。
この時期、「陸軍の規模が二万五千人以下に押えられていたため、連邦議会は陸軍士官学校卒業生たちに、自らの意思に従って自由に行動することを許していた。将校の定員が低く抑えられている限り、連邦議会は、昇進や退役に関する計画の変更を、軍の要求通り認めていた」のである。
プロフェッショナルな改革者たちの思想の主要な源泉は、一八三〇年代と一八四〇年代のアメリカの軍事啓蒙運動にあった。改革者たちの知性の祖父はデニス・ハート・マハンであり、父はH・ウェイガー・ハレクであった。シャーマン、ハレク、それにアプトンはマハンの教え子であった―シャーマンとハレクはまた、士官学校に同時に在籍していた仲であった。改革の戦いに参加した活動的な人物はすべて、陸軍士官学校か海軍兵学校の卒業生であり、この源泉から、プロフェッショナルな改革に対する生粋の貢献が流れ出たのである。
改革者としてひたすら自らの孤独な道を歩み始めた将校たちの目は海外に向けられていく。
しかしながら同様に重要であったのは、改革者たちが外国の軍事制度から学んだことであった。彼らは、非軍事的なアメリカの起源からは支援もインスピレーションも引き出すことをせず、国外の非アメリカ的な軍事的起源に目を向けたのである。
こうした中で一八七〇~七一年の普仏戦争は、アメリカの将校をフランスの制度に対する尊敬の念から解き放ち、代わってドイツおよびその他の国に対する興味を喚起することになった。シャーマンは一八七六年と一八七七年に、アプトンを世界視察に派遣することに尽力した。ドイツを重点として外国の軍事体制を調査することを目的とするものであった。アプトンの報告は、アメリカの将校に対し、合衆国が諸外国から取り残されている実態を初めて総合的な形で示すことになった。
アメリカの改革者たちの目はドイツに向けられて行くことになる。桂太郎がアプトンと時期を同じくしてドイツの軍事制度を調査していたことは前述した通りである。
アメリカの改革者たちは、多くの国の経験を分析したが、彼らの重点的な注意の焦点はドイツに向けられた。アプトン自身もドイツの軍事制度を大いに称賛しており、・・・・シャーマンもまたドイツの軍事組織が「全く完璧なもの」であると評しており、さらにワグナーもこれらと呼応して、「プロイセンの軍事システムの卓越性」を激賞していた。
一八七三年にはクラウゼヴィッツが英語に翻訳される運びとなり、アメリカのプロフェッショナルな軍事学術誌もプロイセン問題に大きな紙面を割くようになった。
『戦争論』とメッケル少佐
我が国でクラウゼヴィッツの『戦争論』が翻訳されたのはアメリカに遅れること三十年、一九〇三年―日露戦争開戦の前年―のことであった。日露戦争を見据えた陸軍参謀本部の要請に基き、陸軍軍医であった森鴎外が、ドイツ留学中(一八八四年~一八八八年)に行ったとされるクラウゼヴィッツ研究をもとに、『大戦学理』の書名で翻訳出版された。陸軍大学校や陸士で活用されたとされるが、『戦争論』の戦術面に関する部分について議論されることはあったとしても、『戦争論』の説く戦争の二元性の概念にまで踏み込んだ議論が展開されたとされる記録は、訳者の手の届く範囲では見出し難い。
この翻訳の件と共に想起されるのは、翻訳に先立つ八年前の一八八五年から三年間、モルトケの推薦によってドイツ陸軍の戦術の権威メッケル少佐が、開設間もない我が国の陸軍大学校に兵学教官として派遣されていたことである。
彼は、陸大で戦術の講義を中心に参謀将校の養成を図ると同時に、顧問の立場で桂太郎、川上操六、児玉源太郎たちと共に陸軍の制度改革を進めた。陸大では一期生として東條英教、秋山好古、さらには校長の児玉をはじめ多くの陸軍の俊秀たちが聴講したとされる。
だが、日本陸軍がメッケルから、クラウゼヴィッツやシャルンホルスト、さらにはモルトケの精神を学んだ記録は、訳者の手の届く範囲では見出し難い。
歴史上の仮定が許されるならば、一八七七年に四十五才の若さで他界した木戸孝允の余命延長であろう。明治維新の重鎮として岩倉使節団の全権副使として渡欧中、一八七三年にモルトケとも面談した木戸は、残留組の西郷と山縣が、文官の地位にありながら元帥と中将の位に就いたことを激しく非難し、モルトケの例も引いて、文明国では「文武の大別判然たり」とする書状を井上馨など藩の同志に書き送っている。三宅坂の陸軍大学校、陸軍参謀本部でのメッケルと木戸の邂逅、「文武の大別」に係る論議は、何を日本にもたらしていたであろうか。
ハンチントンの 「日本 ― 一貫した政治的軍国主義」の一節を引用しておこう。
日本陸軍はその創設時に、最初はフランス、その後ドイツの軍事顧問団の支援を受けた。また各種の軍事専門学校が設立され、・・・・将校の採用制度は、ドイツの制度に非常によく似た方式を採り入れており、昇進のために必要とされる要件は、ヨーロッパの何処の将校団においても見られる基準を採用していた。
しかるに、これらの制度上の諸方策と共に、西洋において築き上げられてきたプロフェッショナルな視座は、取り込むことができなかった。日本はミリタリー・プロフェッショナリズムの外観、言い換えると外部を覆う殻は手に入れたが、その本質を我がものとすることができなかったのである。その結果、日本の軍の精神は、古くから受け入れられてきたイデオロギーによって支配されたままの状態にとどまることになった。・・・要するに、日本の軍の支配的理念は、基本的にこの西洋で築き上げられたプロフェッショナルな倫理と相容れないままの状態にとどまっていたのである。
アメリカ陸軍の対応は日本とは対照的である。モルトケの参謀本部理論が確実に取り入れられて行く。
アメリカの将校たちはドイツと比較して自らの後進性を強く自覚する立場に立たされたが、実際それは過度と思われるほどであった。ドイツの手法を、見習うべき手本として疑義なく受け入れ、十九世紀末までに、ドイツの参謀本部理論が、組織に関するアメリカの軍の考え方に完全に取り入れられていった。ドイツの教訓はしばしば誤解されたり、あるいは誤って適用されたりしたが、ドイツの制度を模倣しようという願望は、アメリカのミリタリー・プロフェッショナリズムを推し進める過程において、重要な推進力となった。
さらに海軍の改革者たちも、若い世代の海軍士官を含め、遅ればせながらドイツに目を向けて行った。
一方ドイツのミリタリズムに対する海軍の関心は陸軍の将校たちに較べいくぶん遅れを取っていた―依然として伝統的な海軍力を信じ、イギリスに焦点を合わせていたのである。アルフレッド・マハンは疑いもなく彼の父のフランスかぶれの影響を受けて、ジョミニの温かい賛美者であったが、それでも二十世紀までには、若い世代の海軍士官たちは軍事組織に関するドイツの考え方を採り入れようと努力する傾向を示すようになっていた。ドイツの手法が海軍大学に導入され、最終的にはマハン自身もクラウゼヴィッツに非常に深い感銘を受けるに至った。
ドイツの参謀本部理論とその制度を取り入れようとする強い願望を抱いて、アメリカの将校たちは、教育制度、人事制度、シビリアン・コントロール等にかかわる組織の改革を推し進めて行く。
四.プロフェッショナリズムの機関
アメリカのミリタリー・プロフェッショナリズムのほぼすべての機関は、陸軍士官学校と海軍兵学校を除いて、南北戦争と第一次世界大戦の間に創設された。これらの機関を設立する上での共通の課題は、技術至上主義と政治介入をミリタリー・プロフェッショナリズムに置き換えることであった。
これらの諸機関は、戦争の科学がその域外に位置する他の科学とは別物であり、またそれに寄与する従属的な科学とも別物であることが徐々に認識されていくに従って、それぞれその実態を反映するものとなっていった。この戦争の科学に対する認識が移り変わっていく状況は教育、要員、そして組織の変遷の中に見て取ることができる。
教育―基本的体系の完成
アメリカの陸軍士官学校は、ジェファーソン大統領が一八〇二年にウェストポイントに設立して以来南北戦争後に至るまで、「その主たる目的は軍と民間のための技術者を育成すること」に限られていた。その狙いは全国民に役立つように創られた実用的な科学教育機関であり、軍という職業のためのプロフェッショナルな教育機関ではなかったのである。
また、一八四五年に海軍兵学校が設立されたときも、「そのカリキュラムは土木工学を海洋工学に置き換えた以外はウェストポイントに非常に良く似た内容のものであった」。しかし、一八六五年以降の半世紀において、陸士・海兵を含む軍事教育機関は次の主要な三段階の過程を踏んで改革・発展することになる。
(1)ウェストポイントとアナポリスにおける技術教育の重要性の低下。
南北戦争直後のアナポリスとウェストポイントは、技術至上主義からより軍事的かつプロフェッショナル的方向に重点を移し始た。一九〇〇年まではプロフェッショナル化という目的が最重要課題に位置付けられ、この面で大いなる前進が図られた。しかし一般教養課程をプロフェッショナルな課程との関係でどのように位置付けるかという問題は、未解決のまま取り残されていた。
(2)陸士・海兵卒業生対象の陸海軍の各種技術学校の設立。
陸士・海兵における技術至上主義の後退に伴い、軍事にかかわる科学・技術の一層の複雑化に対応するため、別組織としての上級技術機関の創設が必要となった。
陸軍は、一八六〇年代に「工兵学校」を設立し、南部出身の偉大な保守政治家・陸軍長官カルフーンが設立したフォート・モンローの「砲兵学校」を再開し、一八八〇年代に入るとシャーマンがフォート・レヴェンワースに「歩兵と騎兵のための応用学校」を設立した。さらに「騎兵と軽砲兵のための実務学校」の設立、一八九〇年代における「陸軍医科大学」、そして一九〇〇年代から一九一〇年代における「歩兵射撃学校」、「野戦砲兵学校」の設立と続く。
一方、海軍の技術教育も、一八八〇年代の「水雷学校」の創設と共に、専門教育を目的として海軍士官の国内外の民間大学への派遣を始め、一八九〇年代になると、ルース提督が海軍の造船技師養成のためマサチューセッツ工科大学の中に「造船学校」を設立、さらには船舶工学、電気工学、兵器に関する独自の上級学校を開設した。
(3)高度の軍事研究のための陸軍大学と海軍大学の創設。
軍事教育における第三の重要な発展段階を示すものは、より高度な兵法の研鑽に専念する上級学校の出現であった。
最初の歩みは、シャーマンがレヴェンワースに設立した上述の「歩兵および騎兵学校」における、二年の教育課程における一般教養科目の純粋な軍事科目への転換であった。
その前段階の動きとして、上述のフォート・モンローの砲兵学校において、シャーマンの後押しとアプトンの参画のもとに、理論課程としてより高度な戦争の科学に関連する幾つかの学科―軍事歴史学、戦略、兵站―が開設された。
一九〇二年になるとレヴェンワースに、大佐以上の将校に「高度な軍事技術と軍事科学」の教育を施すことを目的として「陸軍兵科学校」が設立され、同じくレヴェンワースに、兵科学校の卒業生を対象に、戦時においてより高位の幕僚の地位に就くための教育を実施することを目的とした「陸軍幕僚大学」が設立された。
「幕僚大学」で教鞭をとり、学校長を務めたアーサー・L・ワグナーは、アプトンの著書以降第一次世界大戦までに陸軍が産み出した最高の軍事分析と称される『組織と戦術』の著者であり、高い基準の教育の実施とその成果の積み上げを一途に目指していた。ハンチントンはその教育の内容について、「一九〇四年にはすでに、レヴェンワースを「陸軍大学」と称しても妥当性を欠くものではなかった」と評している。「戦争は学校で教えることが可能であるというドイツの陸軍大学の基本命題を満たしていた」というのがその理由である。
一方海軍は、陸軍のレヴェンワースでの軍事科学の高等教育の実施の影響を受け、最終的に一八八四年にニューポートに海軍大学を創設した。この機関は開設当初、技術的な教育機関との区別が明確でなかったため混乱を招いたが、ルース、マハン等の尽力により、米西戦争後は押しも押されもせぬ存在となった。かくして「同校は科目編成と教育技術の発展における先駆者となり、最後はヨーロッパ諸国の海軍における同種機関の模範」ともなった。p.227
第一次世界大戦に先立つ期間において高度な軍事教育を実現する最後の歩みは、上記のレヴェンワースにおける諸学校の運用と海軍大学の成功の当然の帰結として、一九〇一年の陸軍大学の設立であった。その創設にあたっては、陸軍の組織改革に大きな足跡を残した陸軍長官エリフ・ルートが、陸軍大学の任務を参謀本部の任務と混同したため混乱を招いたが、レヴェンワースの幕僚大学から移ってきたワグナーの下で、陸軍大学は戦争の高度な研究により積極的に取り組む本格的な機関へと変化を遂げて行った。かくして一九一五年までには、ほぼすべての面で完成した高度の軍事研究のための総合的なシステムが整備されるに至ったのである。
なお、一八三五年以前のウェストポイントが、アメリカの技術教育の発展に先進的な影響を与えていたということをここに付記して置きたい。そのことは、「一八七〇年以前に設立された十九の工学技術学校のうち大部分が、ハーバードとエールも含め、陸軍士官学校と直接教育学上の協力関係を築いていた」という事実の中に如実に示されている。
協会と協会誌
この時期アメリカの軍は、陸海軍共に、分野ごとに積極的に協会を創設し、協会誌を発行し、これらの場を利用して幅広く議論を展開して行った。そのことが新しい軍の教育を補完し、プロフェッショナリズムの確立を助けたのである。
プロフェッショナルな協会とプロフェッショナルな協会誌が合衆国で先例のない規模で創設された。その最初の例は、イギリス王立統合軍協会を模して一八七三年創設された「合衆国海軍協会」であった。「海軍のプロフェッショナルな科学知識」の向上を図るという明確な目的を掲げていた。一八七四年に創刊されたその協会誌「合衆国海軍協会ジャーナル(USNIP:the Journal of the Military Service Institution)」は、長年にわたっておそらく合衆国で最も知的で最も影響力の大きい軍事定期刊行物として存続し、海軍士官にプロフェッショナルな議論のための公開の場を継続して提供してきた。
一八七九年になると、陸軍の将校たちも海軍の先例に倣って、再び上記のイギリスの協会をモデルにして「陸軍協会」を設立し、協会誌「陸軍協会ジャーナル(JMSI:the Journal of the Military Service Institution)」を発行した。
これ以降も引き続き、陸軍には様々なプロフェッショナルな技術分野に対応して、多くの協会が設立され、刊行誌が発行されて行く。一八八五年には騎兵協会が設立され、三年後に「騎兵ジャーナル」が発刊された。一八九二年には「合衆国砲兵ジャーナル」の発刊、一八九三年には「歩兵協会」の設立と「歩兵ジャーナル(Infantry Journal:上記のJMSI廃刊後の陸軍の主要機関誌)」の発刊、さらにこの後も「野戦砲兵協会」の設立と「野戦砲兵ジャーナル」の発行等が続く(一九五〇年には上記二誌が合併し「戦闘部隊ジャーナル」となる)。これらの公式学術文献は、量および質の両面で充実化が図られ、一八八二年に設立された米海軍情報局、陸軍省軍事情報部、海軍戦争記録局、そして陸軍大学と海軍大学、すべてが重要な役割を果たした。
プロフェッショナルな学術誌に対する以上のハンチントンの評価から明らかなことは、アメリカの若手の将校たちが積極的に自己の考えを発表し、その中から軍の意見を形成しようとする強い意欲が伺えることである。
人事制度―素人とエキスパートの分離
南北戦争から第一次世界大戦に至る時期は、アメリカ陸海軍においてプロフェッショナルな人事制度の基礎が確立された時代であった。この過程は、将校団を専門職集団として制度的に整備すると同時に、政治および社会から相対的に隔離された存在へと形成する方向に作用した。将校団への加入は士官学校卒業生に制度的に集中し、海軍ではアナポリス海軍兵学校出身者がほぼ独占的地位を占め、陸軍でもウェストポイント陸軍士官学校卒業生が多数を占めた。外部からの任官には厳格な試験が課され、閉鎖的かつ専門的性格が強化された。
昇進制度は年功を基礎とし、政治的介入を回避する手段として維持された。海軍では昇進停滞への対応として1899年に選抜除籍制度が導入され、1916年の改正によって高度に専門化された昇進制度が整えられた。他方陸軍では試験制度の導入など能力基準の整備は進んだものの、全面的な選抜昇進には至らず、年功原則がなお強く作用した。
さらに19世紀後半には定年制と退役制度が制度化され、将校団の新陳代謝と職業的安定が確保された。加えて、現役将校の文官就任や政治活動を禁止する法規が整備され、軍の政治的中立と専門職的自律性が明確に打ち出された。
以上の諸改革は、将校団を高度に専門化された職業集団として確立するものであったが、政治的干渉への強い警戒は、選抜主義の徹底を抑制する要因ともなり、プロフェッショナリズムの発展に一定の限界を与える結果ともなった。
組織―技術至上主義に対する戦い
十九世紀末において、合衆国陸海軍が直面していた根本問題は、単なる戦力増強ではなく、プロフェッショナルな軍としての機能を制度的に確立すると同時に、軍の専門的利益を代表し得る機関をいかに創設するかという組織原理上の課題であった。そしてこの課題の解決は、従来軍組織内部において優越的地位を占めてきた技術―行政部門の影響力を抑制し、戦闘部門を中心とする均質な専門職集団を形成することを不可避の前提としていたのである。陸軍においては、各種スタッフ部門が長期任用によって閉鎖的集団を形成し、軍事的専門性よりも技術的専門性に特化した将校群を固定化していたが、この傾向は一八九四年の立法措置によって部分的に是正されたとはいえ、なお抜本的改革を要していた。一八九九年に陸軍長官に就任したエリフ・ルートは、ドイツ参謀本部制度に学びつつ一九〇三年参謀本部法を成立させ、参謀総長を長官の主たる軍事顧問として制度化し、軍の指揮を長官の名において実施する体制を確立した。これにより大統領から軍の長への直接的指揮(同格型)は制度上排除され、参謀総長は長官の代理として行動する存在へと再定義(垂直型)されたのである。
さらに参謀総長には各局に対する「統括管理」権が付与されたが、それは独立的な「指揮」権ではなく、長官への従属関係を前提とする監督権にとどまるものであり、この語法の選択自体が参謀総長を行政体系の内部に組み込みつつ権限を限定する意図を示していた。また参謀総長の任期は大統領の任期と連動させられ、長官および大統領との信頼関係を制度的前提とする体制が構築された結果、参謀総長は純粋な軍事的代弁者というよりも行政当局の一構成員として政治的責任を担う存在となった。かくして陸軍は、軍事的任務と政治的責任とを結合した垂直型組織へと再編されたのであり、それは専門化を進展させながらも、純粋なプロフェッショナル原理から見れば限定的な改革にとどまるものであった。
他方、海軍においても戦闘部門と技術部門との分断が長く継続していたが、一八九九年の海軍人事法により両者の融合が図られ、均質な将校団形成の基礎が築かれた。より重大であったのは、海軍省内部における長官、各局、ならびに軍の代表機関の関係をいかに制度化するかという問題であり、この点をめぐって均衡型を主張する伝統主義者と、強力な軍事統括機関の設置を唱える垂直型支持者との間で長期にわたる論争が展開された。
最終的に一九一五年、海軍作戦部長職が創設されたが、その権限は「海軍長官の指揮の下」に限定され、かつ軍事分野に専属するものと規定された。ここにおいて軍事と民事行政とを分離しつつ均衡を保持する制度が確立され、海軍はより純粋なプロフェッショナル型組織へと発展したのである。
以上の経緯から明らかなように、陸海軍はいずれも技術至上主義を克服し、専門職軍としての制度的基盤を整備することを目指したが、その帰結は同一ではなかった。海軍が軍事と民事の分離を制度的に維持する均衡型組織へと到達したのに対し、陸軍は軍事と政治的責任とを結合させる垂直型組織へと再編され、その形態を固定化させたのである。
第一次世界大戦期までに両軍は広範な制度的専門化を達成したが、なお三つの点において理想的基準から逸脱していた。
第一に、本来分離されるべき一般教養教育と軍事専門教育とが、ウェストポイントおよびアナポリスにおいて単一の四年課程の中に統合されていたことである。
第二に、昇進制度は本来あるべき能力主義ではなく、情実排除を優先する年功序列制に依拠していたことである。
第三に、とりわけ陸軍においては、軍事責任と政治的責任とが制度的に分離されず、軍の最高機関が純粋に専門的任務のみを遂行する体制には至らなかったことである。したがって、合衆国の軍事制度は、十九世紀末以降、技術至上主義を克服しつつ専門職化を進展させたことは疑い得ないが、その制度構造はなお政治的要素を強く内包するものであり、完全なプロフェッショナル原理の実現という観点から見れば、制約を抱えた体系であったと評価されるべきである。
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