独立戦争終結後、極めて小規模な組織として発足したアメリカ陸軍は―3-2節参照―その後、ヨーロッパ先進国の軍事組織とは大いに異なる発展過程を歩むことになる。ハンチントンはまず、南北戦争前のアメリカ社会がミリタリズムに対して示した伝統的な体質を分析することから、アメリカ軍が歩んだ多難な道程を明らかにして行く。
一.アメリカのミリタリズムの三要素
アメリカの軍の伝統の三要素は、技術至上主義、大衆主義、それにプロフェッショナリズムである。すべて南北戦争以前にその起源を有するものである。
このうち技術至上主義は、軍人のトレードに役立つ機械的技能と専門化した学問に重きを置くことを主旨とする伝統であった―優れた軍の将校は土木工学、船舶設計、地図製作、または水路学のような分野で、高い技術を持つエキスパートであることが要請されていたのである。この軍の技術至上主義のルーツは、十九世紀初期のアメリカ文化の中に広く求めることができるが、主としてそれは、アメリカのミリタリズムに対するジェファーソン支持者たちの貢献の中に見出すことができる。その技術上の影響は、軍事教育と幕僚組織に最も強く表れたが、特に海軍において顕著であった。
民主共和党所属の第三代大統領ジェファーソンは、強力な中央政府を重視した連邦党の第二代大統領ジョン・アダムズとは対照的に、州政府の権利を重視し、個人の権利、共和制統治といった啓蒙思想の理想を信奉し、王制を廃し共和制を樹立したフランス革命の正当性を強く支持していた。
次に、アメリカの軍の伝統の第二の要素大衆主義は、すべてのアメリカ人の備えるべき一般的な能力として、知識の面においても実践の面でも、武の技能に秀でていることを重視する姿勢である―将校は民主主義と自由の理想に鼓舞された市民兵でなければならないということである。この大衆主義の要素は、主として第七代大統領アンドリュー・ジャクソンの民主主義に起源を有しており、その制度面で残した実績は、将校団への加入と昇進の制度と、ジャクソン在任期間中に具体化された陸軍の組織に最も顕著に表われている。
ジャクソンは、アイルランド系移民の農家に生まれ、独学で法律を学び、弁護士、裁判官、農場主、それに政治家として名を馳せ、米英戦争(一八一二年戦争)の時、テネシー州の民兵から国の軍務に就き、司令官として活躍し、初の庶民派大統領となった。白人男性に参政権を与え、州の権限を重視し、大西洋から太平洋までの統治を掲げ、自由放任経済を推進した。
最後に、第三の要素プロフェッショナリズムは、戦争の科学という考え方と、戦争の科学に関するミリタリー・プロフェッションのエキスパートという考え方が、アメリカの軍の伝統に対する南部の貢献として、十九世紀半ばには既に存在していた。だが、アメリカ自由主義の優性な血統の産物である技術至上主義と大衆主義が、このミリタリー・プロフェッショナリズムを保守的な一地方の少数派の地位に抑え込んだ結果、それは十九世紀の経過と共に、アメリカの発展の主流から次第に孤立した存在となっていった。ミリタリー・プロフェッショナリズムを一つの思想として表現することを受容した南部の肩入れは、その後結果的に、ミリタリー・プロフェッショナリズムに対し、敗北を運命付けることにも手を貸すことになった。技術至上主義や大衆主義とは異なり、それは、制度上の成果の具体化を図ることができず、その結果南北戦争前の合衆国には、重要な意義を持つプロフェッショナルな軍の制度は一切存在しなかった。
アメリカ自由主義が生み出した優性な血統の産物である技術至上主義と大衆主義が、南部の育んだミリタリー・プロフェッショナリズムの伝統を衰退に追い込んだが、同時にもう一つ衰退をもたらした要因が存在していた。
二.連邦主義の衰退―挫折したハミルトンのプロフェッショナリズム
ミリタリー・プロフェッショナリズムが合衆国で制度上の発展を遂げることができなかったことは、連邦主義の衰退とも密接な関連性を持っていた。連邦主義者たちはほとんどが古典的な保守主義者であり、彼らの基本的な価値観は、軍の倫理の価値観と非常によく似ていたからである。
顧みるに彼らは、初期の困難な時代に、独立戦争などアメリカの安全保障に責任を負っており、軍事問題に対して保守主義的な対応を取っていた。「ハミルトンの趣味は陸軍であった」と連邦党所属の第二代大統領ジョン・アダムズが記しているが、彼自身も国家の防衛が「常に私の心にひっかかっていた」と語っている。これらの連邦主義者たちは、軍事力の必要性、それに政治が担う任務の中での国防の最重要性を強く主張し、同時に武力外交を非難することもなく、また避けもしなかった―彼らは一部楽しみながら、またかなりの腕前を持ってゲームをプレーしていたのである。 もし連邦主義者の保守主義が、十九世紀に入るまで知的な思潮と政治的な力として、その活力を保ち続けていたならば、ミリタリー・プロフェッショナリズムの豊かな源になっていたであろう。実際は逆に、戦争の科学とミリタリー・プロフェッションが、アメリカで機能的に実現可能となる前に、連邦主義者たちは姿を消してしまったのである。その結果彼らは、軍事力の必要性を強く主張はしたが、その軍事力に対してプロフェッショナルな指揮を行うことの必要性については、明確に示すことができなかった。
ハンチントンは、ワシントンの副官として独立戦争を戦ったハミルトンが、ワシントン大統領の初代財務長官として、アメリカのミリタリー・プロフェッショナリズムに対して果たした歴史的役割とその位置付けを次のように締め括っている。
ワシントンは一軍人としてではなく、一市民として大陸会議の決定に従っていたが、対してハミルトンは、連邦主義者の中でただ一人、ミリタリー・プロフェッショナリズムの重要性を予期しており、少数の軍のリーダーに兵法の基礎を教える長期かつ専門の教育が、労働の細分化の結果、必須となると見ていた。彼は「戦争の原則、戦争を遂行するために必要な訓練、さらにそれらの基礎となる科学を教える」周到に準備された陸軍大学の創設を強く訴えていた。ハミルトンの考えは、連邦主義者のフィロソフィーを最も前衛的に軍事問題に適用したものであったが、ほとんどの連邦主義者たちには受け入れられなかった。さらに重要なことは、保守的な連邦主義者のフィロソフィーそのものが、ほとんどのアメリカ人に受け入れられなかったということである。ハミルトンの初期のプロフェッショナリズムは、一八〇〇年の連邦主義者の政治的な失墜によって挫折し、それに代わって、ジェファーソン流の技術至上主義がアメリカの軍の伝統の出発点となった。
南部のプロフェッショナリズムの伝統と、連邦主義者が推進したプロフェッショナリズムを共に挫折に追い込んだ、ジェファーソン流の技術至上主義とジャクソンンの大衆主義については、ハンチントンの原文を要約し、要点を絞って紹介しよう。
三.技術至上主義
ジェファーソン流の起源―専門化の原理
アメリカ軍では南北戦争以前、将校は「軍事そのもの」ではなく、工学や航海術など個別の技術分野の専門家として教育されていた。そのため将校団は統一的な軍事科学を持たず、むしろ民間の技術者集団と近い性格を持っていた。この背景には、理論より実用を重んじるアメリカ文化と、軍事を専門職として確立させなかった体制がある。その根源にはジェファーソン主義がある。ジェファーソンは常備軍を嫌い、「すべての市民が兵士である」という民兵国家構想を掲げ、軍と社会を分離しなかった。その結果、軍事技能と民間技能の区別が曖昧になり、軍事科学も独立した学問として発展しなかった。軍事教育は大学教育の一部とされ、将校に求められたのは軍事指揮能力より特定分野の科学的専門性であった。
この技術重視の傾向は、フランスの影響によってさらに強まった。ウェストポイント士官学校はフランスの教育制度を手本とし、砲術・工学・要塞などの技術教育を重視した。結果としてアメリカ陸軍は高い技術的・科学的成果を上げた一方、戦争目的や統合的な軍事指導という観点は弱まり、軍事科学の独立と成熟は妨げられた。
教育―ウェストポイントの工学技術学校
南北戦争以前のアメリカの軍事教育は、戦略や軍事科学ではなく、工学・科学といった技術教育は全面的に偏っていた。プロイセンの陸軍大学のような高度な軍事教育機関は存在せず、その象徴がウェストポイント陸軍士官学校であった。ハミルトンは、基礎的な軍事科学教育と兵科別の上級教育を組み合わせた本格的なプロフェッショナル軍事教育制度を構想していたが、ジェファーソンが一八〇二年に実際に設立したウェストポイントは、その構想を大きく縮小した工学中心の学校であった。目的は将校養成よりも、軍民両用の技術者育成にあり、校長も軍人ではなく実務的な科学者が任命された。
その後もウェストポイントでは工学が教育の中心であり、戦術科が設置されたのは一八五八年と非常に遅かった。戦略・軍事史・兵法といった分野は南北戦争時点でもほぼ教えられておらず、卒業生は軍務よりも鉄道建設や測量など民間事業で活躍することが多かった。結果として、士官学校は将軍より技術者や企業経営者を多く輩出し、軍事専門教育機関としては不完全であった。
スタッフ組織―ジェファーソン流の海軍の技術至上主義、一八一五年~一八八五年
十九世紀のアメリカ陸海軍では、技術至上主義がスタッフ組織の在り方を強く規定しており、作戦や戦争を専門的に統括する「真の参謀組織」は存在しなかった。陸軍の参謀本部も実態は兵站・工学・測量などの技術部門の集合体であり、軍事計画や戦略を担う組織ではなかった。このため軍のエネルギーは、戦争準備よりも探査や科学研究、国内開発といった民生的事業に向けられていた。この技術偏重は、とりわけ海軍省の組織に顕著に表れた。海軍では技術的専門知識そのものが軍事専門知識と見なされ、作戦や戦略に関するプロフェッショナルな知識の必要性が否定された。その結果、海軍は軍としての専門的利益を代表する体制を持たず、前プロフェッショナルな組織形態にとどまった。
一八一二年戦争後に設置された海軍コミッショナー委員会では、艦艇建造などの民事的・技術的業務を海軍士官が、規律や運用といった軍事的業務を文民の長官が担当するという、一見非合理的な分業が行われた。しかしこれは、技術業務こそ高度な専門性を要し、軍事運用は比較的単純だと考えられていた当時の発想を反映したものであった。この考え方は、事務局制度に移行した後も基本的に維持された。
戦争が近づくとこの体制の限界は明白となり、南北戦争では長官を補佐する海軍軍人が実質的に戦略・作戦を指揮した。しかし平時には再び文民長官と技術局中心の体制に戻り、恒常的な軍事計画機関は設けられなかった。その結果、十九世紀末に海軍のプロフェッショナル化を進めようとする改革者たちは、長年定着した技術至上主義と組織慣行という大きな障害に直面することになった。
ChatGPTにより原文を要約
引き続きジャクソンンの大衆主義について、ハンチントンの原文を要約し、要点を絞って紹介しよう。
四.大衆主義
ジャクソンン流の起源―融合の原理
当時のアメリカ軍には確立した軍事科学や専門的判断基準が存在せず、そのため将校団は明確な職業的アイデンティティを持てなかった。この空白を埋める形で、軍には社会一般の価値観や政治的基準が流入し、将校団は次第に大衆政治や民間社会と強く結びついていった。将校たちは専門集団ごとに対応する民間人グループと関係を築き、その結果、軍と一般社会のあいだに幅広い交流が生まれた。この現象は、民主的でアマチュア的、理想主義的なアメリカ文化を反映したものであり、特にジャクソン流民主主義の影響を色濃く受けていた。ジャクソン流民主主義の台頭は、自由主義社会に特有の軍事問題への無関心を拡大させた。一八一五年以降、対外的脅威がほぼ消滅したことで、国防や軍事制度の整備は重要視されなくなり、軍そのものに対する消極的否定が広がった。ジャクソン支持者たちは、民兵を自由の象徴として称賛しつつも、正規陸軍の廃止にも、民兵の本格的訓練にも本腰を入れなかった。その結果、南北戦争前の数十年間で民兵は軍事的能力を失い、規律や技能を欠いた単なる社会的団体へと退化した。
この点で、ジャクソン流とジェファーソン流の差異は明確である。ジェファーソン流は「教育された市民」を前提に、技術や訓練を通じて兵士を育成し、将校には専門的能力を求めた。これに対しジャクソン流は、すべての市民は訓練なしでも兵士になれると考え、将校に必要なのは技術や知性ではなく戦闘的熱意であるとした。この姿勢は、ジェファーソン流の技術重視とは対照的に、反知性的・反専門的であった。
ジャクソン流の思想の核心にあるのが、「融合の原理」である。これは、国民は一体化され均質であり、いかなる社会的差別や階層も認めないという考え方であった。この平等への衝動は、やがて均一性の追求へと転化し、「すべての市民は同じで、何でもできる」という発想を生んだ。ジェファーソンが「全市民が軍人である」という理想を掲げたのに対し、ジャクソン支持者は「すべての社会階級を融合する国家」を理想としたのである。
この融合の原理の下では、専門性や職業的差異は疑惑の対象となった。将校団は貴族的制度と見なされ、社会から切り離された専門職であること自体が民主主義に反すると考えられた。その結果、芽生えつつあったミリタリー・プロフェッショナリズムは、自由主義国家において危険で未熟な存在とされ、発展の途上で強く抑圧されることになった。
要員―議会の指名と市民からの途中加入
ジャクソン主義者は、アメリカ軍の中でも特に将校の任用・昇進制度を強く批判し、その象徴としてウェストポイント士官学校を攻撃した。彼らの批判は教育内容よりも、士官学校が将校任官を 事実上独占し、将校団を特権的・貴族的集団にしている点に向けられていた。ジャクソン主義の立場では、将校に専門的技能は不要であり、すべての市民は生まれながらに職業選択の権利を持つと考えられていたため、士官学校は自由主義と相容れない存在と見なされた。議会の調査委員会は、ウェストポイントが「教育と規律」を過度に重視し、軍事的才能は生得的な資質によるという民主的直観に反していると批判した。また、士官学校が富裕層を優遇している可能性にも言及し、軍事専門職そのものへの不信を煽った。最終的に士官学校は廃止を免れたものの、その否定的評価は社会に広く共有された。
この反発の中で確立された最大の制度的遺産が、議会による士官学校生徒の指名制度である。将校候補生の指名権は軍から議会へ移され、下院議員が選挙区単位で推薦する方式が定着した。これは軍人養成への政治介入を制度化するものであり、文民による統制が偏った形で具体化した例であった。この仕組みは陸軍だけでなく、海軍・海兵にも拡大され、以後のアメリカ軍に長期的影響を及ぼした。
さらに南北戦争前の慣行として、市民が直接高位の将校に任命される例が広く見られた。実戦経験や専門教育を欠く人物が将軍職に就くことも珍しくなく、戦時には民兵や志願兵の将校が正規軍より高い階級で復帰することすらあった。民兵組織では将校が選挙で選ばれ、軍の指導層は政治的人気や人脈に大きく左右されていた。海軍や海兵隊でも、政治的・個人的縁故が任用の重要な基準となっていた。
政治任命への不満は存在したものの、それに代わる制度として採用されていた年功序列制も問題が多かった。有能な将校が長年昇進できない一方、能力に関係なく勤続年数で昇進が保証され、組織の停滞を招いた。能力主義的な昇進制度を導入しようとする試みは、客観的な評価基準や定年制度が存在しなかったため挫折した。
こうした大衆主義の影響の下で、将校の政治参加は当然の権利と考えられるようになった。多くの将校は自らを一般市民と同等の存在と捉え、政治活動や意見表明を正当化した。革命期の将校が政治家でもあったことがその根拠とされ、軍人が政治から距離を置くべきだという考えは、貴族的軍人観の名残として否定されたのである。
陸軍の組織―同格型の形態、一八三六年~一九〇三年
十九世紀のアメリカ陸軍の組織は、海軍とは異なり、ジャクソン主義の影響を強く受けて一八三六年に確立された「同格型(二元的統制)」の形態を採り、一九〇三年まで存続した。海軍がジェファーソン流の発想に基づき比較的早く一元的な組織を整えたのに対し、陸軍では文民統制と軍事専門職の関係をめぐる緊張が制度そのものに組み込まれた。当初、陸軍には軍全体を統率するプロフェッショナルな最高司令官は存在せず、陸軍長官が行政と作戦の双方を掌握していた。しかし一八二一年、カルフーン陸軍長官は、ワシントンに総司令官を置き、作戦指揮と行政管理を分担させる均衡型組織を構想した。ところがジャクソン政権成立後、大統領権限の強調や政治的要因が重なり、この構想は変質し、総司令官と陸軍長官が互いに独立した権限を持つ同格型システムへと固定化された。
この制度では、軍事指揮と規律は総司令官が担当し、財政・行政は文民である陸軍長官が担当すると明確に分離された。総司令官は軍事問題について大統領に直接責任を負い、長官は軍の指揮権を持たないとされたため、陸軍と陸軍省は別個の組織と見なされた。この考え方は、総司令官が陸軍の恒久的・専門的利益を代表する存在であるという前提に基づいていた。
しかし実際には、この同格型組織は政治的対立を頻発させた。総司令官は大統領に直接接近できる立場にあり、また長官との責任分担が曖昧であったため、軍の最高位将校は絶えず政治闘争に巻き込まれた。十九世紀を通じて、総司令官と陸軍長官の対立は繰り返され、司令部の移転や公然たる権限争いが常態化した。これらの不和は、総司令官が純粋なプロフェッショナルな軍事指導者として機能することを妨げた。
同格型組織は、憲法上の文民最高司令官制と軍事専門職の存在を調和させようとする最初の試みであったが、結果として不偏的な文民統制を実現する制度にはなり得なかった。陸軍省が六十五年間にわたり二元的統制を維持したことは、アメリカの行政史の中でも例外的であり、これは憲法構造と、ジャクソン主義者が一元的統制を忌避した政治文化が生み出した独特の帰結であった。
ChatGPTにより原文を要約
五.プロフェッショナリズム
南部の源流―軍事的関心の伝統
「南部地方はアメリカで唯一、南北戦争に先立つ時期において、ミリタリー・プロフェッショナリズムに対して根強い信奉の念を育んだ地域であった。・・・南部地方が軍事問題に対して何故強い関心を寄せたのか、ということの理由は種々挙げることができる。」として、ハンチントンはその理由を四項目挙げている。
第一は、武力の必要性を内在していたという南部固有の地域的特性である。奴隷制度の上に成り立つ大農園制度をとる南部地域は、何世代にもわたるインディアンとの戦い、奴隷の暴動、そして逃亡した奴隷とインディアンの結託等の脅威が存続し、「強力な軍隊、軍事的な知識と軍事的な技術の広範囲にわたる普及が安全維持に必須のことであった」。
第二は、南部社会の「中世の浪漫主義に対する隔世遺伝的忠誠」を挙げている。「この風潮はおおかた南部農耕気質に由来するものであるが、イギリス「紳士」の理想に対する南部人の賛美を表すものでもあり、スコットの小説の影響を受けて、中世騎士道の作法と習慣の模倣を志向するものであった。そしてこれらはすべて熱情、騎士道、そして武勇の理想を賛美することに働いた」。
第三は、南部の農業経済が南部人の意識に与えた影響である。「農業中心の郷土色を色濃く漂わしていたことと、商業や産業が他の地域に比較して不在であったことが、軍という職業に対する南部人の関心を自然に喚起した」としている。
しかしハンチントンは、これら三要因以上に重要な決定的因子として、自由主義社会アメリカにおける反自由主義社会としての南部の特殊性を挙げている。
しかるに、これらの要因を凌ぐ、より重要な真の決定的因子となったのは、南部社会の保守的な気質と南部人の考え方そのものであった。自由主義社会における反自由主義の島としての南部が、自己防衛的姿勢をとった結果として産み出されたものであった。この保守主義がプロフェッショナルの理念の高揚に好意的な環境を提供し、上述した南部の生活風土の種々の要因によって喚起された軍事的な関心を盛り上げ、ミリタリー・プロフェッションの本質に対する積極的な認識を高め、そしてこのプロフェッションを職業として選択する風土を創り上げたのである。
このような背景のもとに、「南北戦争前の半世紀を通して南部人は軍の首脳部の主要な地位を独占していた」。「一八三七年の陸軍軍人名簿の中の四人の将軍のうち三人はヴァージニア出身であり、・・・また陸軍の二十二人の最高位の将校のうちの十人はヴァージニア出身であった。要するに長期間にわたって最高位レベルのポストに就いていた将校の多くは南部出身であったのである」。一方海軍においても「共和国の初期には、ニューイングランドが海軍で優位な立場を占めていたが、その後十九世紀の第一四半期になると、中部大西洋の港町の「海軍一派」が海軍士官の主要な出身源となった」。
十九世紀の半ば頃には、陸軍士官学校の理念と雰囲気が一層著しく南部的となり、また海軍兵学校も「南部の香りの燃え広がり」という言葉が相応しいような様相を呈していた。というのもアメリカの軍事制度と軍事的理念が、南部というアメリカ社会のある特定の地域―アメリカ社会の支配的な文化的基調とは明白に「異質」な地域―と一体化される傾向が顕著になるに従って、北部と西部で、ミリタリー・プロフェッショナリズムを本質的に異質で、貴族的なものと見る傾向が強まっていったからである。
最終的に南部は南北戦争に敗れ、そのミリタリー・プロフェッショナリズムは、南北戦争後、軍に対して徹底して敵対的な姿勢をとったビジネス平和主義が支配するアメリカ社会の中で、再度自らの道を模索して行くことになる。
所詮南部の威光は、当時優勢であったジェファーソン主義者やジャクソン主義者の姿勢と対抗して、ミリタリー・プロフェッショナリズムを押し広めるには力不足であったということである。アメリカ自由主義は、南北戦争において南部が敗北を喫したあとは、敢えてミリタリー・プロフェッショナリズムの発展のため戦うことを選択せず、ただ無視するだけであった。
しかし南部の威光はたとえ短期的には政治的負債であったとしても、長期的には知的資産となった。何故なら軍の組織、教育、将校団への加入、そして昇進の諸制度はジェファーソン主義およびジャクソン主義の路線に沿って敷かれたが、アメリカ軍人の心を捉えようとしていたのは南部を起源とする思想であったからである。
南部の熱意が概念としてのミリタリー・プロフェッショナリズムの台頭をもたらし、ポスト南北戦争時代の制度改革のための道を切り開くことになったのである。要するに、アメリカのミリタリー・プロフェッショナリズムの起源は十九世紀半ばの南部保守主義に行き着くのである。ジョン・C・カルフーン―南部の軍事政治家の挫折
南部のミリタリー・プロフェッショナリズムとそれ以外のアメリカ社会との間の関係に内在する問題は、一八一七年から一八二五年の間、第五代大統領ジェームズ・モンローの下で、陸軍長官を務めたジョン・C・カルフーンが残した足跡を辿ることによって、明確に知ることができる。
としてハンチントンは、十九世紀アメリカにおけるミリタリー・プロフェッショナリズムの最も明確な理論的提唱者であったカルフーンを取り上げ、その業績と位置付けを明らかにしていく。要約してその内容を示しておこう。
ジョン・C・カルフーンは、一八一七年から一八二五年にかけて陸軍長官として、アメリカ陸軍の行政・管理体制および軍事政策の双方に深く関与した。彼は、建国間もない合衆国が直面する安全保障上の課題を冷静に見据え、近代国家に不可欠なミリタリー・プロフェッショナリズの確立を目指した点において、同時代の政治家の中でも際立った先見性を有していた。
カルフーンの最も顕著な功績は、陸軍省の行政・管理改革にあった。補給・調達制度、経理・財政制度、監察体制、衛生部門、参謀機構といった諸制度を体系的に整備し、陸軍省を一八一二年戦争後の混乱状態から脱却させた点は高く評価される。これらの改革は一時的な改善にとどまらず、十九世紀を通じて陸軍省の運営を支える恒久的な制度的基盤となった。この意味において、カルフーンは文民行政官として、アメリカ陸軍の近代化に決定的な貢献を果たしたといえる。
しかし、カルフーンの真の関心は、単なる行政効率の向上ではなく、軍をプロフェッショナルな集団として確立する点にあった。彼は、戦争を例外的事態ではなく、国家の存立に関わる現実的な可能性として捉え、平時から訓練と教育を受けたプロフェッショナルな将校団を維持する必要性を強調した。その「拡張可能な正規軍」構想や、民兵を補助的存在と位置付ける考え方は、後世の近代軍制に通じる合理性を備えていた。また、ウェストポイントを将校の技術教育機関からプロフェッショナルな学校へと転換し、専門分野別の上級軍事学校を設けるという構想は、軍事教育の専門化と体系化を志向するものであり、極めて先進的であった。
にもかかわらず、これらの軍事政策および教育改革は、ほとんど実現することなく挫折した。その最大の要因は、常備軍を共和政治への脅威とみなすアメリカ自由主義の根強い伝統にあった。プロフェッショナルな将校が大規模な軍を指揮することへの不信、軍事費増大への恐怖といった社会的・政治的環境は、カルフーンの構想を受け入れる余地を与えなかったのである。フォート・モンロー砲兵学校の閉校や、ウェストポイント改革案の黙殺は、その象徴的な事例である。
総じて評価すれば、カルフーンは十九世紀アメリカにおいて、ミリタリー・プロフェッショナリズムの本質を最も深く理解していた政治家の一人であった。しかし同時に、彼の時代のアメリカ社会は、その理解を制度として受容する成熟段階には達していなかった。結果として、カルフーンの貢献は行政改革という文民的領域に限定され、軍事政策と軍事教育に関する構想は理念の水準にとどまることとなった。この逆説こそが、アメリカのシビル・ミリタリー・リレーションズが長期にわたり抱え続けた構造的緊張を端的に示している。カルフーンの挫折は、個人の失敗というよりも、時代と社会が彼の先見性に追いついていなかったことを示す歴史的事例として評価されるべきであろう。軍に対して敵対的なアメリカの社会環境は、彼がプロフェッショナルな軍の改革のために巻き起こした運動と思潮を掃滅し去ったのである。
ChatGPTにより要約
次いでハンチントンは、南北戦争前に南部に起こった軍事啓蒙運動の経緯と、その中心的な推進力となった陸軍のデニス・ハート・マハンや海軍のマシュー・フォンテーン・モーリーの業績と位置付けを明らかにしていく。
軍事啓蒙運動と南部、一八三二年~一八四六年
ジャクソンの第一期政権の終焉からメキシコ戦争の開始までの十五年間、アメリカでは軍事に関する思想と著作が溢れ出るように出現した。これは多くの点でアメリカの歴史において類例を見ないことであった。軍事学会が創設され、軍に関する学術誌が、短期間ではあったが活気に満ちた活動を呈し、軍の将校たちは重要な―かつ独創的な―著書を出版し、ミリタリー・プロフェッションの概念が詳説され、その正当性が主張された。この突如として現れた動向は、アメリカの軍事啓蒙運動と呼んでよいであろう。多くの要因がその出現に関係しているが、それを可能とした知的な井泉は主に南部に存在していた。奇妙なことにこの啓蒙運動は、始まったときとほとんど同じように、終るときも突如として姿を消すことになった。一八五〇年代にはもはや、一八二〇年代に見られたこの重要な意義を持つ軍事思想は存在しなかったのである。そのうえこの軍事上の開花は、もっぱら意識の上の開花であり、主張の上の開花であった。不思議なことにこの開花は、恒久的な制度上の改革を欠くものであった。しかしながらこの啓蒙運動の思想は、南北戦争後に実現することになっていたプロフェッショナリズムの原型を形作ったのである。
この軍事啓蒙運動の内容と経緯については以下に要約して示しておこう。
軍事啓蒙運動の出現を可能とした誘因は複合的であるが、第一に、軍事分野における諸発展を背景として、将校たちが軍事科学を、単なる技術的専門事項や民間的業務とは異質の知的体系として捉えるようになった点を挙げることができる。第二に、ウェストポイント陸軍士官学校を中心とする初期の軍事プロフェッショナリズムの制度が、なお未成熟な段階にとどまっており、理論的自己規定を強く必要としていた点である。さらに、一八三〇年代から四〇年代にかけて欧米世界に広がった科学への関心の高揚が、軍事思想の形成に重要な刺激を与えたことも看過できない。この時期の軍事啓蒙運動は、後世の専門職化運動とは異なり、当時の知的潮流と緊密に結び付いて展開されたのであった。
この運動の中心に位置した人物が、デニス・ハート・マハンである。一八三二年にウェストポイントの土木工学および軍事工学教授に任命されたマハンは、自らの肩書に「兵法学教授」を併記することを強く要求し、以後四十年以上にわたり、軍事を厳格な意味でのプロフェッションとして捉える思想を将校候補生に教授し続けた。彼は工学および戦略に関する専門書を著す一方で、南北戦争期の軍指導者層とその後継世代に決定的影響を与え、合衆国における軍事プロフェッショナリズムの精神的基礎を形成したのである。
マハンの軍事思想の核心は、軍事史を軍事科学の根源に据えた点にあった。彼によれば、軍事史に対する体系的理解なしには、軍事科学の基本的概念すら把握することは不可能であり、戦略とは不変的かつ科学的原理の領域に属するものであるのに対し、戦術は時代に依存する技術的次元にとどまるものであった。戦争は、単なる機械的技能や暴力の発露ではなく、精神と科学によって導かれる専門的行為であり、十分な教育と研鑽なくして名将は生まれ得ないという彼の主張は、ジャクソン主義的直観に基づく反専門主義への根源的批判を含んでいた。
当時の自由主義的政治環境もまた、この軍事啓蒙運動を刺激する重要な要因であった。ジャクソン主義者たちは、常備軍および将校制度に対して強い敵意を示し、軍に対して自己弁護を迫った。この社会的圧力は、将校たちをして、自己の職能を高度に理論化し、ミリタリー・プロフェッションの正当性を明示的に主張する方向へと駆り立てたのである。
この知的運動の主要な舞台となったのは南部であった。南部では軍事定期刊行物が一八三〇年代から四〇年代にかけて集中的に刊行され、とりわけ『南部学術メッセンジャー』は、陸海軍双方の問題を扱う事実上の全国的軍事論壇としての地位を確立した。また、ヴァージニア軍事大学やサウス・カロライナ軍事大学に代表される地方軍事学校が創設され、南部独自の地域的軍事教育システムが形成された。これらの制度の多くは南北戦争を生き延びることはできなかったが、その存続期間中において、北部および西部には見られない軍事文化を支えていたことは疑いない。
海軍分野においてこの時代を代表する思想家が、マシュー・フォンテーン・モーリーである。彼は、将校と兵卒に要求される修練の本質的差異を明確にし、海軍将校職を法律や医学と並ぶプロフェッションとして位置付けた。能力主義に基づく昇進制度、体系的教育、適切な階級構造の整備を求める彼の主張は、海軍におけるプロフェッショナリズム構想を先取りするものであった。
マハンの思想は、その教え子であるH・W・ハレクによって、さらに精緻な理論体系として結実した。ハレクは、軍事教育と軍事制度の正当性を執拗に擁護し、政治介入と年功序列を排するプロフェッショナルな軍事倫理を論理的に展開した。彼が提起した問い、すなわち国家の安全と名誉、市民の生命を守るための軍事教育を軽視してよいのかという問題は、軍事啓蒙時代の将校たちが共通して突き付けた命題であった。
以上のように、南部を中心として展開した軍事啓蒙運動は、制度的成果を伴わぬまま短期間で消滅したが、軍事を知的かつ専門的職業として把握する視座を初めて体系的に提示した点において、合衆国軍事史上、決定的に重要な思想的先行運動であったと評価されるべきである。
ChatGPTにより原文を要約
最後にハンチントンは、ジャクソン主義を標榜する批判者たちに対して発したハレクの問いを引用して、議論を締めくくっている。
「我々個々人の財産と健康を守るためには、プロフェッショナルな教育が必要不可欠であると考えるならば」、と彼は問うている、「我が国の名誉と安全、我が軍の名声、それに我が市民の生命を守るためのプロフェッショナルな教育を低く見てよいのであろうか?」。これは啓蒙時代の将校たちが提起した命題であったが、彼らの同国人たちは答えることを望まなかった命題であった。
日本に軍事啓蒙運動は何故起きないのか?
ここで南部に出現した軍事啓蒙運動について考えてみたい。ハンチントンは、啓蒙運動出現の誘因を四項目挙げている。一つは、軍事分野全般の急速な発展が将校たちの「軍事科学」に対する認識に大きな影響を与えたこと、またミリタリー・プロフェッショナリズムの初期の制度、特にウェストポイントが未成熟な状態にとどまっていたこと、さらに一八三〇年代と一八四〇年代にヨーロッパとアメリカで広がった科学に対する関心の強まりによって刺激されたこと、そして最後に政治的要因として、自由主義社会の全面的敵意がミリタリー・プロフェッショナリズムの主唱者たちをして、高度な発想と刺激的な意思表明に向け駆り立てたこと、を挙げている。
この軍事啓蒙運動においては各種の軍事刊行物が発行され、南部人はこれらを通して、陸軍と海軍の両分野の種々の問題に幅広く関心を寄せ、活発な議論を展開した。
軍事啓蒙運動に対する主要な建設的推進力は南部保守主義に端を発するものであった。南部人は軍事問題を真剣に考え議論することで他を圧していた。南部では、軍事定期刊行物の発刊が一八三〇年代と一八四〇年代の間に全盛期を迎えていたが、このような傾向はこれ以前にも見受けられなかったし、またこれ以後も一八七〇年代に至るまで目にすることができなかった。『陸海軍マガジン』が一八三三年~一八三六年に発刊され、『陸海軍クロニクル』が一八三五年~一八四四年に、そして『陸軍マガジン』」が一八三九年~一八四二年に発刊された。しかし軍事関連の定期刊行物の中で際立っていたのは、南部の著名な刊行誌『南部学術メッセンジャー』であった。同誌は一貫して、陸軍と海軍の両分野の種々の問題に幅広く関心を寄せ、一八四四年までに「一種の合衆国陸海軍の機関誌の位置付けを獲得していた」―陸海軍の定期刊行物として国民に最も身近なものとなっていた。
しかるにこの啓蒙運動は、始まったときとほとんど同じように終るときも突如として姿を消すことになった。しかしこの啓蒙運動の思想は、南北戦争後の「軍の歴史における最悪期」において、ミリタリー・プロフェッショナリズムを確立するうえでの基石となった。
一八五〇年代にはもはや一八二〇年代に見られたこの重要な意義を持つ軍事思想は存在しなかったのである。そのうえこの軍事上の開花はもっぱら意識の上の開花であり、主張の上の開花であった。不思議なことにこの開花は恒久的な制度上の改革を欠くものであった。
しかしながらこの啓蒙運動の思想は、南北戦争後に実現することになっていたプロフェッショナリズムの原型を形作ったのである。