アメリカにおけるミリタリー・プロフェッション伝承と創成の歴史は、日本人の想像をはるかに超える試練を耐え忍んだ合衆国将兵の長い苦難の道程を如実に物語っている。それは自衛隊が創設以来背負わされてきた社会的・政治的試練を優に超えると言って過言ではない。
論を進めるにあたってハンチントンはまず「自由主義は常にアメリカ合衆国の支配的なイデオロギーとして存在してきた(原著の第二部第六章)」とし、しかもその「自由主義は軍の制度と軍の任務に理解を示さず、敵対的(同上)」であったと断じている。ちなみにハンチントンは、これら二つの特性を象徴的に裏付ける歴史的な出来事を次のように挙げている。
第一は、独立戦争に勝利したアメリカ合衆国が戦勝後一七八四年六月に、「平和時の常備軍は、共和国政府の原理と相容れず、自由な国民の諸特権に対して危険な存在であり、通常独裁政治を実現するための破壊的な原動力に変貌する」として、その唯一の正規軍七百名の大半を解散させ、西部辺境地帯に駐屯させる守備隊に七百名の民兵を配備するよう各州に要請した事例である。
第二は、その百三十一年後の一九一五年の秋、第一次大戦を有利に進めるドイツに対して「アメリカ陸軍参謀本部が戦争突入の可能性のある計画を準備中である」と報ずる新聞記事に、第二十八代大統領ウッドロー・ウィルソンが激怒し、陸軍長官代理に「これが事実ならば参謀本部の全将校を解任し、ワシントンから退去させよ」と命じた事例である。
これら二つの出来事は、アメリカ人の政治に対する考え方に関して二つの基本的な事実を表している。第一に、自由主義は独立革命に始まって二十世紀前半に至るまで、終始アメリカ人の考え方を支配してきたということである。第二に、自由主義は軍の制度と軍の任務に理解を示さず、敵対的であるということである。
このような厳しい社会的・政治的環境の中で、合衆国将兵がミリタリー・プロフェッショナリズムを築き上げてきた過程とその成果は、わが国の自衛隊に対して計り知れない貴重な指標を与えている。次の構成を設定し、その歴史的展望を追ってみよう。
3-2-ext. 自由主義社会対ミリタリー・プロフェッショナリズム
3-2-1. 保守的憲法対シビリアン・コントロール
3-2-2.南北戦争前におけるアメリカ軍の伝統のルーツ
3-2-3.アメリカのミリタリー・プロフェッションの創成
ここで、3-2-ext. は原著の第六章、3-2-1項は第七章、3-2-2項は第八章、3-2-3項は第九章に対応している。
3-2-ext. 自由主義社会対ミリタリー・プロフェッショナリズム
ハンチントンは、アメリカ合衆国における文民と軍の関係に関して、この両者の長期的な歴史的対立関係を包括的に明示することから論を起している。
一.アメリカのシビル・ミリタリー・リレーションズの歴史的不変性
自由主義は常にアメリカ合衆国の支配的なイデオロギーとして存在してきた。一方アメリカの憲法は基本的に保守的に制定された最高法規として存在してきた。それは、政治権力の集中を恐れるが故に、それを多数の政治機構の間に広く分散するよう作り上げられたものであった。さらに、アメリカのシビル・ミリタリー・リレーションズの顕著な歴史的事実は、自由主義のイデオロギーと保守的な憲法が組み合わされることによって、政治権力とミリタリー・プロフェッショナリズムの間に相互に対立する関係を築いてきたということであった。共和国の誕生から第二次世界大戦を通して、アメリカの自由主義と保守的憲法は、アメリカのシビル・ミリタリー・リレーションズにとって、比較的変化の少ない環境的定数項として働いたが、その結果、これら両者の相乗効果によって、アメリカにおける将校職のプロフェッショナル化は、ヨーロッパにおけるその完成後まで遅れを取ることになった。同様に不偏的シビリアン・コントロールの実現は、軍を政治権力から事実上完全に排除できるか否かに委ねられることになった。
以上、政治権力を多数の政治機構に分散的に制定した保守的憲法がアメリカにおける将校職のプロフェッショナル化を困難にしたことを示したあと、改めてアメリカにおける自由主義の優位性を論じていく。
二.アメリカにおける自由主義の優位性
アメリカの自由主義は、元来、入植者たちがジョン・ロック(John Locke)のイギリス的伝統を継承したものを嚆矢としている。しかし、アメリカにおける自由主義の優位性は、この継承されたものから直接生まれたものではなく、次の二つの要因、安定した経済発展と国際関係におけるアメリカの孤立から産み出されたものであった。この第一の要因である安定した経済発展は階級闘争を抑制する効果を発揮した。何故なら、パイが常に拡大していたために、パイの配分に関する闘争が存在しなかったからある。新たに社会に誕生した集団も、既成体制に挑戦するため、急進的イデオロギーを用意し主張する必要が無く、既成体制の中にすぐに吸収されてしまったのである。一方既成集団の中にも、自らの権益を急進派の猛攻から守るため、保守的イデオロギーを敢えて主張するものは一切存在しなかった(ただし後述する二例の例外がある)。押し寄せる新しい波が常に城門の前で消滅してしまったからである。要するに、急進主義も保守主義も共に必要とされなかったのである。新生グループも既成グループも共に信奉していたのは自由主義であり、アメリカには、ヨーロッパの封建制度、ヨーロッパの階級制度、ヨーロッパのプロレタリアの何れも存在しなかったため、アメリカの政治闘争は、同じ基本的価値観を共有する利益集団の間の、限られた問題に対する他愛のない言い争いに限定されていた2。要するにアメリカの歴史の中で見られた大きな政治論争は、若干の例外を除いて、自由主義の二種以上の変種の間で闘わされた論戦に限られていたのである。
次に第二の要因、十九世紀において合衆国が世界政治から孤立していたことは、自由主義の優位性を一段と強化する効果をもたらした。このような孤立状態の下では、国家の安全保障は無条件で保障された絶対的事実であった―安全保障は政策策定のための前提条件であって、政策策定によって決定すべき最終結果ではなかったのである。このような状況下では、世界に対してアメリカのあるべき姿を正当付けるフィロソフィーや、国際問題に適切に対処する方法を説示するフィロソフィーなどに、如何なる効用が期待できるであろうか? アメリカ社会のすべての集団は通常、経済に不安を感じておらず、同時にアメリカ社会自体も全体として政治に不安を感じていなかった。国内政治における権力の役割に対するアメリカ人の認識は、階級闘争が不在であったために安易なものとなっていた。同時に対外政治における軍事力の役割に対するアメリカ人の認識は、対外脅威が不在であったために曖昧なものとなっていたのである。
ひき続いてハンチントンは、アメリカにおける自由主義的教義の社会への浸透の実態とその特徴を示していく。
自由主義は、全体主義の独裁者がうらやむほどにアメリカ社会に浸透し、アメリカ国民の間に均質な信条として定着し、本質的に最も反自由主義的な団体でさえ、その影響力の前に屈する状況に置かれていた。組織宗教は通常保守勢力であるが、アメリカでは、プロテスタントが自由主義のイメージに模様替えをし、カトリックでさえも自由主義の環境の影響を一方ならず受けていたのである。・・・このようにイデオロギーの世界で、自由主義が勝ち取った最も重要な勝利はおそらくこの宗教の征服であるが、政治の分野に関して言えば、自由主義がビジネス界に受け入れられたことの方がはるかに重要な意義を持っていた。
アメリカのビジネス・イデオロギーは徹底して自由主義的であったが、それは啓蒙運動的合理主義、自由主義神学の立場に立つプロテスタンティズム、社会進化論、それに伝統的な経済的個人主義をアメリカ固有の仕方で組合せ創り上げたものであった。ビジネス界は、アメリカのその他の社会集団と同じように、強いて保守的なイデオロギーを育てようと意識したことはなく、個人主義、合理主義、それに進歩を信奉する自由主義的信条を支持することにおいて、教会、大学、プロフェッション、労働運動と足並みを揃えていた。
ハンチントンはしかし、これとは正反対の傾向を持つ二つの集団が存在したことを次のように記している。
しかしながらアメリカの歴史において、自由主義のイデオロギーを信奉することのできなかった重要な集団が二つ存在していた。両者とも純粋に保守的であり、また両者とも南北戦争以前に存在していた集団であった。そのうちの一つ、連邦主義者たちは、およそ一七八九年から一八一二年までの期間、ニューイングランドと大西洋岸で活動していた商業および製造業にそのルーツを持つ集団であった。彼らの保守主義は、対内的および対外的の両難題に立ち向かうことから生まれた彼ら固有の信条であった。・・・・自由主義の優位性に対する第二の例外は、南北戦争前の南部であった。南部保守主義の成立をもたらした要因は主として国内的なものであった。南部の社会制度は、言わば自由主義社会の中における反自由主義の島といえるものであったが、自衛上の目的のために南部人は、彼らに先行した連邦主義者と同じく、創造的かつ独創的な政治的洞察に基づいて保守主義を主張した。
前者の連邦主義の代表的な指導者は、アメリカ合衆国憲法制定時に、強い中央政府を支持して憲法案に賛成した人々であり、独立戦争で陸軍少将としてワシントンの副官を務め、引き続きワシントン大統領の下で初代財務長官を務めたアレクサンダー・ハミルトン、それに第二代大統領ジョン・アダムズ(連邦党)の名が挙げられる。しかしトーマス・ジェファーソン(民主共和党)が第三代大統領に選出されたあと、連邦主義者が危惧した社会不安は起こらず、また一八一四年における米英戦争の終結とともに、「アメリカからのヨーロッパ撤退が実現し、その結果、合衆国にとって輝かしい、以後八十年にわたるヨーロッパ大陸からの孤立の時代の幕開けを迎えることになった。かくして国内的ならびに対外的な脅威が姿を消すことになって、保守的連邦主義もまた消滅を迎えるに至ったのである」。
また後者の南部保守主義を代表する指導者は、一八一七年から一八二五年の間、第五代大統領ジェームズ・モンロー(民主共和党)の下で、陸軍長官を務めたジョン・C・カルフーンである。後述するようにカルフーンは、大統領、長官、それに軍の長の間に存在する、行政におけるシビル・ミリタリー・リレーションズの問題に関して「偉大な成功者」となり、「軍事組織としての陸軍にも強い関心を持ち、将校職のプロフェッショナル化を強く主張した」。ハンチントンは次のように締めくくっている。
軍事政策に対する最も鋭い洞察と軍の機能に対する最も深い理解を示した二人の政治家が、共に保守勢力の偉大なるスポークスマン、アレクサンダー・ハミルトンとジョン・C・カルフーンであったことは偶然の出来事ではない。彼らは、軍事政策の考え方のみならず、軍事問題に対する関心の高さの点でも、自由主義的指導者たちとは鮮明な対比をなしている。実際アメリカの自由主義は、百五十年以上の間、軍事問題に関してこの二人に匹敵する能力と関心を備えた政治指導者を産み出すことができなかった。所詮ハミルトンとカルフーンは、アメリカの知的、政治的な発展過程の主流から孤立した存在であったのである。彼らの軍事政策は彼らの政治哲学と同じように、アメリカ国民から広く迎え入れられることはなく、自由主義という雪崩が、彼らを日の目を見ることのない歴史の裂け目に押し流してしまったのである。
三.軍事問題に対する自由主義的アプローチ
第一次世界大戦へ参戦したあとのアメリカは、自らが信奉する自由主義のフィロソフィーが「戦争、平和、それに国際関係を考えるための有効な手段を与えるものではない」という新たな歴史的課題に直面することになった。この難題に立ち向かうアメリカが辿った多角的な尽力の軌跡は、国際社会における現代のアメリカの立場・地位を理解するうえで極めて重要である。要点をついたハンチントンの推論のあとを追ってみよう。
合衆国においては、自由主義的精神が支配的な地位を占めていたため、アメリカの対外政策と国防政策を推し進めようとすると、最初に、保守的なフィロソフィー、あるいは外交問題を扱うのにより適したフィロソフィーが欠如していることが、極めて強く意識させられることになった。その結果、この領域における責任から逃れることのできないアメリカの自由主義は、ヨーロッパの自由主義よりずっと広範囲にわたって、国家間の関係に対する自由主義的アプローチの追求に尽力した。その一方で、実際の国際経験を生かし、国際関係におけるアメリカの能力欠如の原因となっている主要な要因を補強、拡張しようと試みた。アメリカ自由主義におけるこれらの主要な要因は、(1)国際問題に対する無関心、(2)国際問題への国内解決策の適用、(3)国際問題における客観性の追求である。
(1)国際問題に対する無関心
自由主義の起源は本来、国家に対する個人の権利を主張することに端を発しており、自由主義の思想は、この国家に対する個人の関係と社会の中の個人間の関係に焦点を合わせてきた。また自由主義は、決して国家の存在そのものに疑問を抱くことはせず、むしろ、国家が自立した状態で存在していること、それに対外的に安全保障が確保されていることを前提としてきた。・・・・要するにアメリカの自由主義政党は一般に、対外政策と国防問題を等閑視してきたのであり、その結果、外交的および軍事的手腕を養おうとした自由主義者は存在しなかったのである。国家は孤立して存在しているとする前提は、特にアメリカの自由主義にとって意味があった。何故ならほぼ一世紀の間、アメリカの現実は、自由主義の想定するこのイメージに近い状態に置かれていたからである。この自由主義の前提が合衆国に適用できたが故に、自由主義は一層しっかりとアメリカ人の心の中に定着したが、アメリカの孤立状態が一旦終焉を迎える時期が来ると、逆に一層解決困難な問題が提起されることになった。
(2)国際問題への国内解決策の適用
安全保障問題に関する自由主義の第二の特徴は、国内政策を国際問題に適用するということであった。一般に対外政策の問題は、国家間の力の配分という問題を内包している。アメリカの自由主義は、この問題を真っ向から扱うことができなかったために、対外政策と国防問題を国内の政策課題と同じレベルに落とし、そこで効果的に取り扱おうとした。アメリカ社会の中では自由主義的な解がはなはだしく成功を収めていたため、この国内政策の国際問題への適用は、アメリカ自由主義の著しい特徴を表すアプローチであった。自由主義者の立場から観ると、合衆国に深刻な社会的対立構造が存在しないことは、アメリカ特有の法制度と特有の経済システムの存在の然らしめる結果であった。・・・・アメリカ人は一連の国内改革の成果を矢継ぎ早に国際問題の解として取り入れることを強く主張した。その中には、共和政体の政府の広範な容認、国際自由貿易、後進地域の工業化、貧困の撲滅、調停条約、常設国際司法裁判所、戦争の非合法化、開かれた盟約の自由な締結、国家間の文化交流の積極推進などが含まれていたが、これらすべてが、アメリカの対外政策にとって最重要事として、時宜に応じて提唱された。要するにアメリカ自由主義は、これらの改革を標榜して、国内の成功事例を対外問題へ適用しようとしたのである。
(3)国際問題における客観性の追求
アメリカの自由主義が外交問題において直面した困難の第三の側面は、アメリカが客観的基準と理想的目標を追求しようとしたことであった。元来自由主義は、諸国家を評価するのに、一つの絶対的な基準―国家が個人に対し如何に自由の最大化を保証するかという基準―を適用する傾向があった。アメリカはこの基準を外交政策へ適用したことによって、孤立と客観性という奇妙な感覚を覚えることになった。何故なら、自由主義者は筋を通すためには、他国に適用したのと同じ基準―個人の自由の最大化―によって、自国の外交政策も評価しなければならず、その結果彼らは、国家間の勢力均衡のために闘う権力闘争から遊離しているような感覚を味わうことになったからである。・・・・元来自由主義は、中流階級のフィロソフィーとして生み出されたものであり、自らを上流階級と無産階級の両極端のはざまに位置する、合理的な中間的存在と位置付けていた。かくして二十世紀になると、自由主義者は、自らを共産主義とファシズムの中間に位置する極めて重要な中道派であると位置付けたのである。自由主義に与えたこの位置付けは、合衆国がヨーロッパの国家システムの動向から孤立した状態に置かれていたため、最近に至るまで、合衆国で次第に強固な信条となって行き、その結果「中道を標榜する自由主義的フィロソフィー」が、世界政治における合衆国の立場を正確に言い表す表現となったのである。ちなみにフランス革命勃発後のヨーロッパで激化していた戦争に対して、我が初代大統領が即時に示した反応は中立宣言であった。その後アメリカの中立の権利が侵害されたとき、あるいは均衡を保つ国としてのアメリカの立場が脅されたときに限り、合衆国は一八一二年に米英戦争、一九一七年に第一次世界大戦、さらに一九四一年に第二次世界大戦というヨーロッパの戦争に参戦してきた。その結果、世界情勢における合衆国の立場は、自由主義者の立場―社会と一定の距離を保ち、その社会を自らの理想とする基準で評価する立場―に相当するものとなった。
自由主義者が自らの理想のためには進んで戦い、自らの制度のためにはまれにしか戦わないように、合衆国もまた勢力均衡の争いに巻き込まれなかったおかげで、対外政策目標を、国益に基づいて決めるよりは、むしろ普遍的な理想に基づいて決め、そしてそれを追求することが可能となったのである。
以上ハンチントンは、軍事問題に対してアメリカ合衆国がとった国家としての自由主義的アプローチを歴史的に検証してきた。引き続いて、アメリカ人が個人的レベルで戦争およびミリタリー・プロフェッションに対して如何なる姿勢をとったかを分析し、その結果として軍に突き付けたアメリカの軍事政策の本質を明らかにしていく。典型的なアメリカ人が示す普遍的な特徴を掘り下げた興味深い分析であり、本節の構成を単純化する意図も含め、以下囲み記事としてまとめておきたい。
戦争とミリタリー・プロフェッションに対するアメリカ人の姿勢
戦争に対するアメリカ人の相反する二つの感情
戦争に対するアメリカ人の姿勢は、歴史的にこれまで大きな変遷を見せてきたが、それでも根底に横たわる一貫性は不変のまま保たれてきた。アメリカ人は一般に戦争に関しては極端論者である。全霊を傾けて戦争に取り組むか、または徹底的に戦争を拒否するかである。この極端主義は、自由主義のイデオロギーの本質に由来する必然的帰結である。というのも自由主義は、安全保障の確保に際して、国益の道義的正当性の評価に重きを置かないため、戦争をあくまで自由主義の目的に照らして、これに反するものとして非難するか、あるいは自由主義の目的を支えるイデオロギー的行動であるとして正当化するしかないからである。アメリカの思想はこれまで、戦争を保守的・軍事的な意味で国家政策の一手段と認めることはしなかったのである。
アメリカ人の考えの中において、平和主義的な傾向は常に力強さを保ってきた。戦争の全面的拒否は、自由主義の考え方、人間は合理的であり従って様々な平和的解に到達することができなければならない、と調和するものである。必要とされることは、適切な教育―国家主義的で好戦的なプロパガンダを排除する教育―か、あるいは適切な制度―紛争の平和的解決のための機構として必要とされる国際的組織と調停条約―である。西洋文明における体系化された平和主義は、一般に中産階級の運動であった。その中で合衆国は際立った中産階級の国として、このような平和主義の考え方に一方ならず肩入れをしてきたのである。
戦争に対する聖戦的アプローチは元来、平和主義と相容れないものではなかった。一般に認められているように、アメリカのナショナリズムは、理想主義的ナショナリズムであり、その正当性の根拠は、他国民に対するアメリカ国民の卓越性にあるのではなく、他の理想に対するアメリカの理想の卓越性にある、と主張されてきた。
アメリカの理想主義にとって、これまですべての戦争は聖戦であった。国家の安全保障という特定の目的のために戦われたものではなく、普遍的な原理、例えば民主主義、公海の自由、自決権のために戦われた戦争であった。まさにアメリカ人にとって戦争は、聖戦でない限り戦争ではあり得ないのである。例えば、アメリカで過去の戦争を列記した一覧表が作られるとき、通常十九世紀のインディアンとの戦いは一切記載されない。その戦いの多くは、一般に認められている過去の七回の戦争の一部のものより長期化し、血なまぐさいものであった。それにもかかわらず省略される。何故なら、インディアンとの戦いは、聖戦としてのイデオロギー上の目的と一般民衆の熱意を欠いていたからである―これらの戦いは、主として正規部隊によって戦われたものであり、その戦争のためだけに徴兵された特別な兵力によって戦われた戦争ではなかったのである。・・・・第一次および第二次アフガニスタン戦争がその例である。アメリカが国民に対し、聖戦に志願出兵するよう要請することなく、戦争を戦ったことは、インディアンとの紛争以降、一九五〇年六月の朝鮮戦争の時まで皆無であった。
ミリタリー・プロフェッションに対するアメリカ人の敵対的イメージ
自由主義は戦争に対する考え方に関して様々な意見を内包しているが、ミリタリー・プロフェッションに対する敵対的姿勢に関しては考え方が一致している。ミリタリー・プロフェッションの任務は、国家の軍事的安全保障の確保にあるが、その任務の重要性は、聖戦の戦士にも平和主義者にも認められていない。両者とも、ミリタリー・プロフェッションを彼ら自身の目的達成に対する障害であるとしか見ていないのである。平和主義者は、プロフェッショナルな軍人を、自らの地位を高め、権力を得んがために紛争を企む戦争屋と見る。また聖戦の戦士は、プロフェッショナルな軍人を、戦争遂行にあたって戦争で勝ち取るべき理想そのものには関心がなく、また奮起することもない、残忍な重荷と見る。要するに平和主義者は、軍人は平和を汚すと見ており、聖戦の戦士は、軍人は聖戦を汚すと見るのである。
プロフェッショナルな軍人は戦争の勃発を望んでいる、とする平和主義者の考え方が、西欧社会では広く行き渡っている。さらに特異なことに、アメリカ人は戦時においても軍人に敵対的である。これに対して例えばイギリスでは、昔から軍は平時には冷遇されたが、戦時には頼りにされてきた。しかしながらアメリカでは、正規軍は平時にも戦時にも国民から背を向けられてきた。というのも聖戦は、国民の手によって戦われるのであって、プロフェッショナルの手によって戦われるのではないとされてきたからである。戦争のイデオロギー上の目的に最も高い関心を示す人たちが、最も激しくプロフェッショナルな将校の保守的で限定的な政策を非難してきた。・・・・南北戦争において、急進的な共和制論者は、南部に対して強力かつ積極的な政策を採ることを熱望し、マクレランを始めとする北軍の将軍たちの慎重な行動を激しく非難した。同様の趣旨でウッドロー・ウィルソンは、第一次世界大戦中にプロフェッショナルの役割を最小限に抑えた。その理由は、
これは先例のない戦争である。従ってある意味アマチュアの戦争である・・・。過去の戦争に参戦した経験豊かな軍人は、経験に関する限り時代遅れの人間である・・・・。アメリカがこれまで常に誇りとしてきたことは、何時でも必要なときに必要なことを成し遂げる人間を見出せたことである。アメリカは世界における第一級のアマチュア国家である。ドイツは世界における第一級のプロフェッショナル国家である。仮にいま、かつてないことを手掛けることになり、しかも首尾よく成し遂げなければならないとすれば、私は常にプロフェッショナルよりはアマチュアの側に立つ。
アメリカの自由主義は、その国内外の敵をミリタリー・プロフェッショナリズムと同一視してきた。それは、軍の考え方の中に内在する本質的な保守主義が然らしめた結果であった。例えば独立戦争は、ジョージ三世の常備軍と傭兵に対する市民兵の戦いであると言われた。また南北戦争は、ウェストポイント出身者に指揮された南軍に対する戦いであるとされた。さらに先に引用したウィルソン大統領の言葉は、第一次世界大戦の主要な敵はドイツ軍国主義である、というアメリカの考えを反映している。なお第二次世界大戦でアメリカは、ドイツ陸軍をナチス政権と同一視したため、後者に対する前者の抵抗を利用する機会を失うという事態を招いた。要するに、プロフェッショナルは常に敵側に置かれていたのである。
国内政治においては、自由主義を標榜する各集団は、軍を自らの固有の敵と同一視する傾向がある。軍は、自由主義社会の中で認められた役割が皆無であり、アメリカのイデオロギー上のコンセンサスの枠外にあるとして、これまで常に共通の攻撃目標とされてきた。軍を自らの政敵と同一視することは、最初のうちは妥当なことであった。何故なら、十八世紀の軍事制度は基本的に貴族的であり、自由主義に対峙する立場に立っていたからである。しかるにこの考え方は、軍が貴族階級から切り離され、プロフェッショナル化の時期を迎えたあとも存続した。相次いで出現した自由主義の各集団はそれぞれ、軍を旧体制の既得権益集団と同一視した。・・・・ビジネス界は、軍は過去の農業時代の陳腐化した遺物であり、活き活きとした熱気に溢れる市民社会からの寄生虫の逃げ場であって、生産力に対する脅威であると見ていた。他方で労働者と改革派の集団は、ビジネス界と軍が非情な同盟を結ぶ図式を心に描いていた。もちろんこれらの見方がすべて正しいという訳ではないが、軍は現実に南部との友好的な関係を除いて、アメリカ社会の如何なる集団とも、これまでこれといった特別の関係を築いてこなかった。まさにこの孤立化が、すべての集団から軍が敵視される状況を作り出す主要因となったのである。
自由主義の軍事政策―従うかさもなければ死を
軍に対する上述の敵対的イメージは、これまでアメリカ自由主義が軍事政策を推進する際の基盤をなす要素として存在してきた。アメリカ自由主義の軍事政策は本質的に、軍の価値観と軍の要求に対して一貫して敵対的姿勢をとってきた。かくして、自由主義が軍に対して突き付けた事実上の強制命令は、「従うかさもなければ死を」ということであった。アメリカの自由主義はこれまで、一方では、暴力にかかわる制度を事実上すべて廃止することに肩入れし、そのことによって、シビル・ミリタリー・リレーションズの問題を完全に一掃しようと試みてきた。これは取りも直さず根絶の政策である。また一方では、武力の維持を必要とするときは、厳密な偏向的シビリアン・コントロールを実現することを強く主張し、軍事制度を自由主義に沿うよう作り直し、本来の軍の特性を失わしめようとした。これは改変の政策である。シビル・ミリタリー・リレーションズの問題に対するアメリカ的解を表すこれら二つの政策は、方法論は異なるが、目標とするところは共通している。それは、軍事的な機能的要件とプロフェッショナルな軍の考え方を、自由主義の支配下に置くことである。
根絶の政策は、概して平時に、安全保障の確保に大規模な軍の維持を必要としないときに効力を発揮した。この根絶の政策を最も端的に表す思潮は、「小さな常備軍」という考えに対する信奉であった。このことは、軍事問題に対するアメリカ人のアプローチにおいて、かなり永続的な特徴として下記の姿勢の中に映し出されている。
(1)大規模な軍は自由に対する脅威である。この姿勢は、とりわけ共和国の創設当初大勢を占めていたもので、主に陸軍に対して向けられていた。その後再び十九世紀の大詰めを迎えた時点に、軍が市民の自由を侵害する恐れがある、と言われた時代に、いくぶん異なった形で姿を現した。しかしその危惧の念は、抽象的な意味での自由に対する危惧ではなく、特定の自由、例えばストライキ権、兵役拒否、平和主義的プロパガンダを実施する自由に対する危惧であった。
(2)大規模な軍は民主主義に対する脅威である。この姿勢はジャクソン主義と共に現れたもので、将校団を、人民政府を転覆させることを企む「貴族的特権集団」と見ていた。元々は陸軍と海軍の両方に対して向けられた姿勢であるが、その最も先鋭的な遺恨の矛先は「ウェストポイント閥」に向けられていた。
(3)大規模な軍は経済発展に対する脅威である。ジェファーソン支持者たちは、海軍を自由に対する脅威と見ることができなかったため、経済に対する脅威として攻撃した。また南北戦争後に、将校団のプロフェッショナル化が推し進められたことによって、「自由に対する脅威」論が、陸軍に対するものも含め、説得力を欠くようになったため、代わってこの「軍備重負担」論が、陸海軍すべてを対象に広く唱えられるようになった。この運動は、ビジネス団体と過激派勢力の両者によって推し進められたが、両者は共通して軍の非生産性を攻撃した。
(4)大規模な軍は平和に対する脅威である。軍拡競争は戦争を招き、戦争の最も重要な支持者は軍である、とする考え方が、ジェファーソン支持者の海軍に対する敵対意見の中に存在していた。同時にそれは、平和主義者の姿勢の中にも一貫して見られるものであった。この考え方は、二十世紀初頭に最も広く支持を集めるようになり、「軍備重負担」論と共に現在に至るまで引き続き支持されている。
一方改変の政策は、大規模な軍事力の必要性が認識された戦時に優勢となった。ただし小規模な改変の政策は平時にも存在していた。この政策の趣旨はおそらく、次のスローガン「第一に民兵を頼みにすべし」と、海軍に関する一九一五年のジョセフス・ダニエルズの主張「アメリカではアメリカナイズされない制度は存続し得ない」の中に、最も象徴的に示されている。この改変の政策を推進するためこれまで主に次の三つの主張が提言されてきた。
第一は、軍事防御は、投票と同じく全市民の責任であり、ある特定の限定した小グループに任せることはできない、とする主張である。この考え方の起源は、ミリタリー・プロフェッショナリズムの出現以前の東部植民地に求められるが、「市民兵」および「武装国家」という概念のもとに、二十世紀に引き継がれてきた主張である。
第二は、民主主義国が保有する軍は民主的な軍でなければならない、とする主張である。これもまた植民地時代から引き継がれてきた考え方であるが、その最も極端な主張は将校選挙制の実施である。またより穏健な形態として、将校と下士官兵の差別の撤廃も提案されている。民主的リベラリズムのイデオロギーを軍に植え付け、規律と統制によるよりは、個人のイニシアティブに頼ろうとする主張である。
第三は、軍を維持しなければならないとするならば、社会的に望ましい他の目的にも利用すべきである、とする主張である。このことは、初期の時代の工兵隊の公共奉仕活動から現在に至るまで、アメリカの歴史上常に継続して実施されてきた。この主張は、軍の唯一の目的は戦争にある、とするカルフーン—ルートの考え方と対照をなしている。
アメリカでは、歴史的にミリタリー・プロフェッションに対して敵対的姿勢が強かったにもかかわらず、将軍が大統領になったケースが多数存在する。以下ハンチントンの興味深い分析を見ていこう。
四.自由主義政治における軍の英雄
アメリカ人の気質が極めて反軍的であったことを考えると、必然的に次の疑問が起こる。何故軍の英雄がアメリカ合衆国でかくも人気が高かったのか? どうして三十三人の大統領のうち十人が将軍であったのか? また、どうして軍事的な功績がセオドア・ルーズベルトのような人たちの人気と成功にそれほど貢献したのか? さらに、綿密な分析結果から見ると、何故軍の英雄が、軍の経験のない人たちに較べて概してより成功した大統領選挙立候補者となったのであろうか? これらのことは、通常軍にほとんど敬意を払って来なかった社会における特異な例外ではないだろうか? 対照的に一七八九年以降のイギリスでは、成功した将軍で総理大臣となったのは、唯一人ウェリントン公だけであった。
これらの疑問に対する答えは、もちろん、このアメリカにおける軍の英雄の人気は、自由主義的改変の最も代表的な実例を表す、ということである。成功した軍の英雄は、ノンプロフェッショナルな軍人であったか、あるいはたとえプロフェッショナルな軍人であったとしても、軍人的な装飾を脱ぎ捨て、自由主義の装いを身に着けた軍人であった。このアメリカの軍の英雄の役割が如実に示していることは、アメリカ的風土の中では、政治権力とミリタリー・プロフェッショナリズムは相容れない、ということである。アメリカ市民はこれまで躊躇せずに、軍人として成し遂げてきた実績を自ら投げ捨てる人物を英雄としてきた。他方軍人であり続ける軍人はこれまで人気がなかった。軍の英雄として分類できる主要な党公認大統領候補は十五人に上る。そのうち九人は、軍の経歴が自らの唯一の職業ではない、あるいは通常は自らの主たる職業ではない、ノンプロフェッショナルであった。これらの九人はワシントン、ジャクソン、ウィリアム・ヘンリー・ハリソン、ピアス、フリーモント、ヘイズ、ガーフィールド、ベンジャミン・ハリソン、およびセオドア・ルーズベルトであった。残りの六人はプロフェッショナルであり、テイラー、スコット、マクレラン、グラント、ハンコック、およびアイゼンハワーであった。これらの十五人の政治的な経歴を見ると、その顕著な事実は、ノンプロフェッショナルの方がプロフェッショナルより幸運であったということである。ちなみに九人のノンプロフェッショナルのうち、ホワイトハウスの内部を見ることができなかったのはフリーモント一人だけであったが、プロフェッショナルについては、六人のうち三人が不首尾に終っている。・・・・アメリカ人は、政党の候補者として軍の英雄を好んだが、同時にその候補者の軍の経験が、彼の一般人としての経歴の中の一幕であるか副業であることを望んでいた。勝利の戦場から直接政治の世界に乗り入れる軍の英雄は例外として、アメリカ人は通常、偏に軍人としての資質が優れている候補者よりも、法律、政治、ビジネス、または他の市民活動で成功を収めた円熟した候補者を好むのである。自由主義の英雄は多能な英雄ということである。
ミリタリー・プロフェッショナルの人気は、軍人から如何に平民になるかその度合いに掛かっていた。大統領となった三人のプロフェッショナルな将校は、軍暦における勝利と人好きのする個性を巧みに組合せて人気を獲得した。彼らが軍務に携わったことで、特定の党や党派に属さず、国民全体に奉仕する人間というイメージを国民の間に浸透させ、そしてそのことが、気のおけない親しみやすい個性―テイラーの「粗野だが有能」、グラントの「アンクル・サム」、アイゼンハワーの「アイク」―と相俟って、うまく事を運んだのである。またこれによって彼らは時代の多くの問題にかかわらずに済むことになった。彼らは軍事的にせよ非軍事的にせよ、明確な計画を持っていたが故に市民にアピールしたのではなく、計画を持っていなかったが故にアピールしたのである。
一方挫折したプロフェッショナル、スコット、マクレラン、ハンコックは、近付き難い個性を持つ、あまりに典型的な軍人タイプであるか、もしくは民間の世界で、あまりに早くかつあまりに明確に、自らの無能ぶりを露呈したかのいずれかであった。また海軍士官がこれまで大統領候補指名を獲得できなかったこと、さらにはデューイ提督を除いてこのような指名候補としてまじめに考えられたこともなかったということは、海軍の将校団が備えている、より厳密なプロフェッショナル的性格と、隔離された勤務上の特性とが反映された結果である。海軍士官は、往々にして陸軍の同僚たちより一般国民から隔離された世界に住みがちであり、従って幅広い政治的なアピールをするのが難しかったのである。大統領になったプロフェッショナルな将校たちは、候補者としてだけではなく大統領就任後も、民間の様式に順応した。彼らの政策は、恐らく一件の例外を除いて、全体として軍務の経験のない大統領の政策とほとんど異ならなかった。彼らは、おそらく多くの文民政治家たちと比較してより一層受身で、彼らの時代の優勢な政治勢力を忠実に代表し、仲立ちするような立場に立っていた。特に彼らは、行政機関に対して、政策に関する明確な考えを押し付けるようなことはせず、ほとんどの場合臨機応変に対処していたが、一方で議会の要望に対しては常に大いなる敬意を払っていた。「大統領を務めるなんて簡単なことだ」、とデューイ提督は述べたと言われている、「大統領としてしなければならないことは、要するに議会から指図を受けることだ」。プロフェッショナルな軍人の大統領が民間出の大統領とはっきり違っている点は、軍の規模を決めることに関してだけである。テイラー、グラント、それにアイゼンハワーの政権は、すべて軍事編制を大幅に縮小した。
南北戦争後のミリタリー・プロフェッショナリズムの高まりによって、軍と政治の間の境界がより明確に定められることになった。南北戦争以前は、ほとんどの政治家は、民兵の将校任命辞令を受けており、合衆国正規軍に入出隊していた者も多く見受けられた。九人のノンプロフェッショナルな候補者のうち五人が南北戦争前に立候補し、そのうち三人が南北戦争において軍事的名声を獲得した。しかし、米西戦争においてセオドア・ルーズベルトが名声を獲得したことを除けば、市民将校が自ら名を成す機会は南北戦争が最後となった。アメリカが参戦した二十世紀の戦争は、プロフェッショナルな指揮の下で戦われたため、ノンプロフェッショナルな軍の英雄は、おそらくもはや過去のものとなったと言えよう。これからは、市民兵が名を成すのは、ヨーク軍曹のように個人的な勇気ある手柄による場合に限られるであろう。勝利した軍の指揮によって名を成すのはもはや不可能である。
それでは、プロフェッショナルな軍の英雄についてはどういうことが言えるのであろうか? 彼らの重要度は多かれ少なかれ高まる方に向いたのであろうか、または逆であろうか? プロフェッショナルのうち二人、テイラーとスコットは南北戦争以前に候補者となったが、当時は正規兵であっても、軍務と政治の間の境界があまりはっきりしていなかった時代である。他の三人のプロフェッショナル、マクレラン、グラント、ハンコックは南北戦争において名声を勝ち取り、候補者となった。その後一八八〇年から一九五二年の間は、プロフェッショナルな軍人が大統領候補者に指名されることはなかった。・・・・このように、ハンコックとアイゼンハワーの間の七十二年間の空白は、結果的に、一八六五年の南北戦争終結以後に、プロフェッショナリズムが高められたことを映し出しているのである。総じて見れば、ノンプロフェッショナルな軍人(セオドア・ルーズベルトを除いて)は軍の英雄としての候補者になれなかった。というのも彼らは軍の英雄になれなかったからである。一方プロフェッショナルな軍人は軍の英雄としての候補者にはならなかった。というのも彼らはプロフェッショナルであったからである―彼らは政治の世界へ危険を冒して飛び込むことを決め兼ねており、一方政治家たちも彼らを求めることを決め兼ねていたのである。これに対して、一九五二年のアイゼンハワーの選挙戦での勝利は、一九四〇年以降表面化した劇的状況変化の中で、軍のプロフェッショナルが政治の世界に進出することを告げる先駆けとなった。
アイゼンハワー以降軍のプロフェッショナルが政治の世界に進出することになった問題については、合衆国の状況と我が国の自衛隊の状況について別途論ずることにしたい。