前項3-1-ext. 「ヨーロッパ社会におけるミリタリー・プロフェッションの出現」に引き続き、ハンチントンは、プロイセンが他国に先駆けて創設するミリタリー・プロフェッションの歴史的過程を詳細に調査、分析して行く。議論は次の4項目に分けて論じられる(番号は原著の第二章に従う)。

  五.ミリタリー.プロフェッショナリズムの起源
  六.プロフェッショナルな機関の出現、一八〇〇年~一八七五年
  七.ヨーロッパのプロフェッショナリズム―アプトン将軍の要旨、一八七五年
  八.プロフェッショナルな倫理の定式化―クラウゼヴィッツの『戦争論』、戦争の自律性と従属性

五.ミリタリー.プロフェッショナリズムの起源
 プロイセンの卓越性
 ミリタリー・プロフェッションの起源に正確な日付を与える必要があるとするならば、一八〇八年八月六日が選ばれなければならないであろう。その日、プロイセン政府は将校の任命に関する行政命令を発布した。それは一切の妥協を排する明瞭さでプロフェッショナリズムの基本的基準を明示している― 

 将校任命の唯一の資格は平時には教育とプロフェッショナルな知識である―戦時には傑出した勇気と直観力である。従って全国民のうちこれらの資質を備えるすべての個人は軍の最高の地位に就く資格を有する。軍の制度における従来の社会階級優先制度はすべて廃棄され、すべての人間はその出自に関係なく平等の義務と平等の権利を有する。

 生まれながらの天才に基礎を置く貴族的な指揮能力の理論が未だ信奉されていた十九世紀の初頭に、現代でも通用し得るプロフェッショナリズムの基本的基準を公布したプロイセンの先進性、ハンチントンは、その改革の創始者とその底流にあった啓蒙運動について、次のように評価している。

 シャルンホルスト、グナイゼナウ、グロールマン、およびプロイセンの軍事委員会の重要な改革は西欧におけるミリタリー・プロフェッションの真の起源を表している。

 これらの指導者の業績の底流にあるのは、十八世紀の最後の十年間にプロイセン陸軍の中に出現し、一八〇六年の戦い以後にわかに勢いを得た思想、議論、および著作であった。十八世紀との急激な決別をもたらすことになったこれらの運動において、近代ドイツ陸軍の真の創始者となったのはシャルンホルストとグナイゼナウである。フレデリック大王やその父フレデリック・ウィリアム一世ではなかった。

 彼らは十八世紀の最後の時期に、プロイセン軍の特色をなす種々の制度と理念を確立し、そして事実上すべての他国の将校団が最終的に倣った一つのモデルを創設した。各国はそれぞれ西欧の社会文化にその特色ある貢献を果たしてきたが、プロフェッショナルな将校を創始したという栄誉はプロイセンに帰するものである。

 
 一八〇八年の行政命令の発布に始まるこのプロイセンの改革運動は、ヨーロッパにおける軍のプロフェッショナル化を推進して行くことになる。

 軍のプロフェッショナル化は十九世紀の二期間に集中して進展した。第一の期間、一八〇三年~一八一五年のナポレオン戦争の間とその直後に、大方の国家は初等軍事教育のための各種機関を設置し、将校団への加入条件を緩和した。そして第二の期間、十九世紀の第三四半期に、選抜と昇進の方法を洗い直し、参謀本部を創立し、そして高等軍事教育機関を設置した。

 この両期間中運動を先導したのはプロイセンであった。ヨーロッパのすべての国が一八七五年に至るまで精々ミリタリー・プロフェッショナリズムの基礎的な要素を身に付けた段階にとどまっていたのに対し、プロイセンだけがこれらの要素を一つの円熟した完全な制度へと発展させていた。

 
 プロフェッショナル化の第二の期間に当たる十九世紀の第三四半期にヨーロッパを席巻した主要な戦争は、いわゆるドイツ統一戦争と称される、デンマーク戦争(一八六四年)、普墺戦争(一八六六年)、そして普仏戦争(一八七〇~七一年)である。
 その前段階として、ナポレオン戦争の終結と共に締結されたウィーン議定書に基づき、一八一五年にオーストリア帝国とプロイセン王国を中心にドイツ連邦が創設された。その後一八六六年に両国の主導権争いを契機に始まった普墺戦争でプロイセンが勝利し、さらに普仏戦争でフランスのナポレオン三世を破って一八七一年にドイツ統一(ドイツ第二帝国)を実現することになる。
 この間プロフェッショナル化を推進した中心人物は、一八五七年にプロイセン陸軍の参謀総長に就きドイツ統一戦争を指揮したフォン・モルトケであった。プロイセンがこの期間に確立したシステムとクラウゼヴィッツの理論面での貢献について、

 将校団に加入するために必要な一般教育および専門教育の要件、各種の資格試験、より高度な各種軍事教育機関、能力と功績による昇進、高水準で効率的な幕僚組織、将校団の統一性と責任の意識、プロフェッショナルな能力の限界の認識、これらをプロイセンは驚異的なレベルにまで整備、確立していた。
 それに加え、この新しいプロフェッションのための理論的根拠を構築するのに貢献した一人のプロイセン人、クラウゼヴィッツの特別の存在があった。

ここで「プロフェッショナルな能力の限界の認識」はクラウゼヴィッツの貢献を表すものである。前にも触れたように、これはクラウゼヴィッツの『戦争論』における戦争の二元性の概念に当たるものであり、プロフェッショナリズムの真髄を表す概念である。次いで、ハンチントンはプロフェッショナル化を推進した歴史的要因を次のように分析している。

 このプロイセンという特定の国がこのような方策を推進し、改革の先頭に立った理由は、何処に求められるべきであろうか?
 
 その答えは第一に、広くヨーロッパにおいてプロフェッショナリズムの出現をもたらすことに与った各種の一般的要因の中に求めるべきである。

 次いで、それらが特にプロイセンにおいて顕著に出現したというプロイセン固有の事情の中に求めるべきであろう。 これらの要因として挙げられるのは、科学技術の専門分化、拮抗するナショナリズム、民主主義と貴族政治の対立、そして安定した正統的権威の存在である。 

 
 プロイセンおよびヨーロッパにおいてプロフェッショナリズムの出現をもたらすことに与ったこれら四つの一般的要因について順を追って見てみよう。 

 プロフェッショナリズム成立の条件
 (1)科学技術の専門分化―第一の要因
  十八世紀から十九世紀にかけての人口増加や技術革新、産業化や都市化の進展は、労働の専門化と分化を促し、戦争も単純な領域ではなく、複雑な組織運営を要するものへと変化した。多様な専門職から成る巨大な有機体となった陸海軍は、これらの多様な諸要素を、設定した目標に向け調整統合・指揮する特別な専門家が不可欠となった。
 将校は政治や治安維持を兼ね備える万能的な存在ではいられなくなり、軍事の役割は政治家や警察官の機能から切り離されることとなったのである。こうした科学技術の専門分化こそがプロフェッショナリズム成立の第一の条件であり、特にプロイセンでは、後述するように、種々の社会的・政治的要因と結びついて特別の形で展開したのである。

 翻訳原文をChatGPTにて要約。

 
 実際ヨーロッパの人口は、十八世紀半ばの約一億五千万人から百年後の十九世紀半ばにかけて約二億八千万人とほぼ倍増した。また一七六〇年代にイギリスで始まった産業革命は、その原動力となる蒸気機関の発明を基に、鉄鋼の大量生産技術、多様な産業機械の開発を推し進め、蒸気機関車・蒸気船による水陸両交通機関の発達をもたらしたのである。

 (2)拮抗するナショナリズム―第二の要因
  ミリタリー・プロフェッショナリズムが成立するうえで第二の根本的要因となったのは、国民国家(nation state)の発展であった。独立 した将校団を維持するには、それが社会において必要不可欠な存在であること、そして継続的に支えるための資源を確保できることが前提となるが、これらの条件は近代国家体制の進展によって初めて実現した。国家間の激しい競争や戦争に伴う敗北の危機は、各国に専門化した恒久的な軍事エキスパート集団を組織させる強力な動機となり、フランスやイギリスでも時期を異にしながら将校団のプロフェッショナル化が進展していった。

 特にプロイセンの場合、地理的に脆弱で領土が分散していたため強力な軍事力への依存が不可欠であり、敗北と屈辱の経験が軍制改革を強く後押しした。ナポレオン戦争を通じて、旧来の常備軍だけでは国の安全保障を担えないことが明らかになり、プロイセンは徴兵制度を導入し、庶民を軍事力に組み込むと同時に、将校団を集団的に訓練・育成して有能な組織へと成長させた。天才的な指導者の不在は、かえって平均的な人材を計画的に教育し、組織力と規律によって軍の力を高める方向へと導いたのである。このようにしてプロイセンは、ヨーロッパで最も不安定な地政学的条件に置かれながらも、むしろその不安定さゆえにプロフェッショナルな将校団をいち早く創出し、軍事的先駆者としての地位を確立した。

(3)民主主義の理念と政党の台頭―第三の要因
  ミリタリー・プロフェッショナリズムの発展を促した第三の要因は、民主主義の理念と政党の台頭であった。民主主義の思想は本来政治制度を組織化するための仕組みであったが、その支持者たちは軍事組織にも適用しようとし、将校を貴族の出自ではなく市民からの選抜で任命すべきだと主張した。アメリカ独立戦争期やフランス革命期には、将校を選挙で選ぶ試みが行われたものの、いずれも失敗に終わった。なぜなら代議制の理念も貴族制の理念と同様に、専門性を基盤とするミリタリー・プロフェッショナリズムとは根本的に相容れなかったからである。しかしこの民主化の試みは、将校団を貴族が独占する体制を揺るがし、プロフェッショナル化を進めるための重要な契機となった。十九世紀前半には、貴族的価値観と民主的理念の対立が政治を行き詰まらせ、その結果、どちらの陣営にも偏らない独立した将校団を互いに認めざるを得なくなったのである。つまり、特定の階級や政党に忠誠を持たず、独自の専門基準に基づいて組織されたプロフェッショナルな将校団こそが、最も有効な妥協点として浮上したのである。

 この均衡状態はとりわけプロイセンにおいて顕著であり、フランスにも小規模ながら存在していた。プロイセンでは、イエナの敗北後もなお貴族的支配が強固に残る一方で、自由主義や中産階級の台頭が勢いを増していた。軍内部では保守派が貴族的基盤を守ろうとし、改革派は選挙制を求めたが、シャルンホルストは両者の対立を調停し、政治的偏向に左右されないプロフェッショナル基準による将校任命制度を整備した。フランスでも一八一八年、サン・シールが自由主義と王党派の両極を排し、穏健派の支持を得て同様の改革を実現した。一方、イギリスでは貴族政治と民主主義の対立は存在したが、プロイセンやフランスほど鋭くはなく、プロフェッショナリズムを社会的妥協の解決策とする動きは見られなかった。アメリカに至っては、貴族制度そのものが存在せず、民主主義が自然に根付いていたため、将校団のプロフェッショナル化においてこの種の刺激要因はほぼ存在しなかったのである。

(4)安定した正統的権威の存在―第四の要因
  プロフェッショナリズムの発展を支えた最後の要因は、軍に対して唯一無二の正統な権威が存在していたことである。プロフェッショナルな将校は国家への奉仕を使命とし、権威を体現する唯一の機関に忠誠を尽くさねばならない。しかし権威が複数存在したり、何が正統かを巡って対立がある場合、軍は政治闘争に巻き込まれ、忠誠心や政治的価値観が専門性に優先されてしまう。その結果、政府は将校の能力よりも政治的忠誠を重視し、プロフェッショナリズムは妨げられるのである。したがって軍に対する権威が一元的に確立され、政治闘争が軍から隔離されていること、さらにその権威が広く認められる公式の政府機関に集中していることが、プロフェッショナリズム成立の不可欠な条件となった。

 この観点から見ると、プロイセン・フランス・イギリスの三国の中で、最も好条件を備えていたのはプロイセンであった。プロイセンでは国王が最高国防卿として軍の唯一の権威と定められ、中産階級の台頭にもかかわらず、その権威はほぼ揺るがなかったため、軍を立憲政治から切り離すことが比較的容易であった。

 対照的にイギリスでは、1688年の立憲的妥協によって議会と君主が軍の統制を分け合い(権利の章典の制定)、二元的な仕組みが長期にわたり続いた。そのため軍は政治の渦に巻き込まれ、プロフェッショナル化が遅延した。最終的に19世紀末に君主の軍事指揮権が廃止されるまで、この構造は維持され、その制度はアメリカ合衆国にも持ち込まれたため、後の米国でもシビリアン・コントロールとプロフェッショナリズムの葛藤が繰り返された。

 フランスではこの問題がさらに深刻で、自由主義勢力、反動勢力、ボナパルティストなどが軍の主導権を奪い合い、将校団を政治闘争の場へと引きずり込んだ。サン・シールが1818年に中立的な将校団を整備しようと試みたが、実際には政府自体が将校を政治的立場によって選別し、監視下に置くことを要求したため、中立化は徹底できなかった。その後もマクマオンやブーランジェ、ドレフュス事件やペタン、ド・ゴールに至るまで、フランスの将校団は立憲政治に深く関与し続けた。つまり、プロフェッショナリズムが純粋に発展するには、政治闘争から切り離された一元的な権威が不可欠であり、その条件を最も満たしたのがプロイセンであったのである。    

翻訳原文をChatGPTにて要約。


イギリスの政軍関係のアメリカへの伝承

 ここに極めて重要な歴史的事実が指摘されている。イギリスの十八世紀型のシステム―君主が軍の最高司令官であるのに対し議会は軍を募集し維持する権限を持つ、いわゆる権力分立の方式―が、君主を大統領に置き換えて、後の一七八八年にアメリカ憲法に採用されたことである。

 その結果アメリカは、大統領と議会との間の権力の確執が常に軍を政治に巻き込む機会を作り出し、将校職のプロフェッショナル化の実現に後れを取ることになった。実際その影響は、後述するように、第二次世界大戦において思わざる形で顕著に表れることになる。一方のイギリスでは、十八世紀末からほぼ一世紀にわたる一連の機構改革によって、基本的に軍に対するすべての権限を内閣に集中し、極めて効果的なシビリアン・コントロールを実現した。

 まず一七九四年に最高司令官の官職が陸軍に創設されたとき、最初の歩みが踏み出されることになった。イギリス陸海軍の最高司令官である国王直属の地位に置かれたこの新しい官職が創設されたことによって、陸軍は政党政治の範囲外にあると見做せるプロフェッショナルな軍の長を頂点に迎えることになったのである。この軍の長は政治の影響を受けやすい文民の陸軍大臣から任命と規律に関する権限を徐々に引き継いでいき、一八六一年には陸軍の指揮、規律、および任命に関する完全な責任を担う立場に立つに至った。その結果、彼の従うべき権威は基本的に軍の統治に関する君主の一般指揮権だけとなり、陸軍大臣は軍の非軍事的な業務を執行することになった。

 さらに一八七〇年に内閣が、軍の長を陸軍大臣に従属する地位に置くべきであると強く主張したのを受け、一八九五年に独立した地位としての最高司令官のポストを廃止し、続いて一九〇四年に大英帝国参謀総長の職を、陸軍大臣の下に創設することによって、完全な均衡型の組織を確立した。さらにこれと同じシステムが海軍省にも採用された。この均衡型組織形態の実現が可能となったのは、君主が自らの最高位将軍、最高位提督としての地位を、不本意ながらも憲法に「高貴なる」―バジョット(Bagehot)の言葉によれば―規定として組み入れることに同意したからであった。


ここで注目すべき点は、アメリカの大統領と違って、イギリスの首相は軍の最高司令官ではないこと、加えてその最高司令官は、陸軍大臣の下にあって軍の指揮を含む全軍事的権限を持つ参謀総長であるということである。ハンチントンはこのシステムを次のように表現している。

これによって確立された「効果的な」シビリアン・コントロールの階層構造は、議会から内閣へ、首相へ、陸軍大臣へ、そして軍の長と陸軍省の行政諸局へと通る形となる。


これは取りも直さずハンチントンの推す不偏的シビリアン・コントロールが実現していることを示すことに他ならない。
 その結果、後年第二次大戦においてアメリカとイギリスは、極めて異なった戦争指揮システムを築いて枢軸国と戦うことになった。アメリカは文民を一切排除し、ルーズベルト大統領と軍の最高司令官による閉鎖的な戦争指揮体制を敷いて政治的、軍事的問題をすべて処理した。一方イギリスでは、政治的問題はチャーチル首相―国防大臣の線で方針を決定し、これに基づき国防大臣の下に位置する参謀総長が軍事的責任を全うするという戦い方を貫いた。ハンチントンによれば、

 アメリカ軍のリーダーは、イギリス軍の高官の任務が限定されていたことに羨望の念を抱かなかったとしても、イギリスのシビリアン・コントロール・システムが産み出す優れた統制と結束を認めない訳にはいかなかった。少なくともイギリス軍はたとえ政府の政策に同意できなくても、常に政府の政策が如何なるものであるかを理解していた。一方アメリカ陣営では、誰が政策を立案しているかについて認識が混乱していた。その結果時としてアメリカ軍はイギリスのシステムにおける整然とした責任分担にあこがれを抱いていた。


 ハンチントンはさらに、国家としてのアメリカの戦い方を、シビリアン・コントロールとミリタリー・プロフェッショナリズムの観点から詳細に分析し、次のように総括している。

 もし統合参謀本部が、権力の座に入り込んで文民の目標を受け入れる代わりに、本来の自らの軍の役割を守り、政治指導者たちに戦争生起の永続性を警告し、軍事的安全保障の問題は戦勝記念日以後も存在し続けることを注意喚起していたならば、合衆国は戦略的にもっとずっと有利な立場に立って終戦を迎えることができていたであろう。
 アメリカのシビル・ミリタリー・リレーションズの混乱は、ただ一つのアメリカの奥深い病弊が合衆国の政治制度に投影された結果もたらされたものであった―その病弊とは、軍事的安全保障を軍事的勝利と引き換えたアメリカ人の無知および素朴な希望であった。


軍事的勝利を第一の目標に掲げたアメリカ国民の要望、つまりアメリカ大統領の要望に対し、統合参謀本部が、プロフェッショナルとしての自らの立場を堅持し、政治に立ち入ることなく、本来の任務である軍事的安全保障の問題に専念していれば、アメリカは終戦時に、戦後の冷戦に向けより有利な地政学的状況を確保していた、という主張である。
 しかし、同時にハンチントンは、このより低レベルのシビリアン・コントロールと、より低基準のミリタリー・プロフェッショナリズムを誘起するアメリカ憲法の欠点を認めながら、これを補って余りある利点をアメリカ憲法に見出している。

 専制的な政治権力を抑制するのに、我が国以上に効果的なシステムを備えている国は存在しない。また行政上の統一性と立法上の多様性をこれほどユニークに調和させた国も他には存在しない。プロフェッショナルな基準を固守しようと励む軍の将校や、シビリアン・コントロールを実現することに心を砕く文民の長官は、両者共に必然的に羨望の目をもってイギリスの内閣制度を見るであろう。しかしながらこのような制度は合衆国のためのものではない。
  我が国の憲法がシビリアン・コントロールに対して与える有害な影響は、完全に除去することは不可能であろうが、種々の制度的な調整によって、権力の分立の枠組みの中で緩和することは可能である。言うなれば、アメリカが擁するより低レベルのシビリアン・コントロールと、より低基準のミリタリー・プロフェッショナリズムは、アメリカの憲法体系が備えているその他の長所のための代償として、アメリカ人が支払わなければならない対価なのである。


ここにはアメリカ憲法とアメリカ国民に対するハンチントンの深い信頼感を読み取ることができる。現代の戦争の科学は、周知のように、高度化、大規模化、複雑化の道を盲目的に突き進んでおり、軍人の果たすべき役割の重要性は一途に拡大し続けている。その結果、一国のシビル・ミリタリー・リレーションズの方式を如何に定めるかは、国家の安全保障上極めて重要かつ困難な課題となっている。第二次大戦におけるアメリカとイギリスの戦い方から我々の学ぶべきことは多い。


 さてここで再び十九世紀のプロフェッショナル化の検証の問題に戻ろう。将校のアマチュアリズムからプロフェッショナリズムへの移行に伴って、十九世紀に一般兵役の制度が新たに出現した。この徴兵制は、その最初の導入国プロイセンに端を発し、ヨーロッパ諸国をはじめアメリカを含む全世界で遍く実施されることになったが、その歴史的経緯と意義についてハンチントンの分析を見てみよう。

 一般兵役とプロフェッショナリズム
 ナショナリズムと民主主義の進展は「武装国家(nation in arms)」という考え方を生み出し、その結果として市民を基盤とする国民軍(national army)が成立した。徴兵制はその中心にあり、短期兵役を経た市民が軍の主要な構成員となったことで、軍の性格は大きく変化した。プロイセンはこの潮流の先駆けとなり、ナポレオン戦争の敗北を契機に将校団の専門化と一般兵役制度を同時に導入した。一八一四年の法によって定められたこの仕組みは、細部の変更を経ながらも第一次世界大戦まで有効に機能した。

 一方、フランスでは革命期と第一帝政時代に、混迷のうちに徴兵制が試みられたものの定着せず、王政復古によって禁止されるに至った。その後、将校団改革と並行して一般兵役制度導入が進められたが、貴族の反対により志願入隊や抽選入隊の採用に妥協を強いられ、加えて将校団の専門化が停滞したため、結局は職業兵中心の旧来型に戻らざるを得なかった。しかしながら普仏戦争の敗北を契機に再び改革が進み、ようやく大衆陸軍の体制が整えられた。

 イギリスやアメリカは地理的条件から徴兵制の導入が遅れたが、プロイセンの勝利の衝撃を受けてイギリスは購入制度を廃止し、兵役期間短縮や短期入隊者確保に努めるなど、大衆陸軍の方向に歩みを進めた。

 兵員の形態が十八世紀の長期服務の正規兵から、十九世紀の徴兵制で徴募されたアマチュア兵へと変化するのに伴い、従来より遥かに有能で経験豊かな将校のリーダーシップを確立する必要性に迫られ、将校自体がプロフェッショナルとして軍事組織の持続的な中核的担い手となることが要請された。その結果、徴兵制度がプロフェッショナリズム化を加速する効果を招来した。

 一部の著述家たちは、十九世紀の軍隊が職業軍から市民軍や大衆軍へ移行した点を強調しすぎ、将校団におけるプロフェッショナリズムの発展を軽視した。しかし実際には、一八七〇年の普仏戦争でのプロイセンの勝利は、プロイセン陸軍の「大衆(マス)」的特性に負っていると共に、プロイセン将校団と特にその参謀本部の優れたプロフェッショナルな能力によって支えられていた。徴兵制が全面戦争や残虐性の拡大を孕んでいるのは事実であるが、この体質は、将校団のプロフェッショナル化によって陸軍の統率にもたらされる節度、合理性、それに慎重さを備えた専門知識・技能によって、ある程度相殺されるのである。

翻訳原文をChatGPTにて要約。

 
 「将校団のプロフェッショナル化によって、軍の統率に、節度、合理性、それに慎重さを備えた専門知識・技能がもたらされる」ここには、ミリタリー・プロフェッショナリズムの本質に対するハンチントンの深い洞察が示されている。 太平洋戦争末期に旧日本軍が採った究極の作戦―特攻隊、民間人の前線投入―は、戦後八〇年を経た現在においてもなお我々の胸中にわだかまっている。明治維新によって発足した近代日本に、ミリタリー.プロフェッショナリズムが根付かなかった経緯は、原著『軍人と国家』において第5章に詳述されているが、これに関連して別途考察したいと思う。

.プロフェッショナルな機関の出現、一八〇〇年~一八七五年
 (1)加入と初等教育
 将校団へ加入するためのプロフェッショナルな方式の発展には、次の三段階のフェーズがあった―(1)加入する際の貴族の前提条件の撤廃、(2)基礎的レベルのプロフェッショナルな訓練と能力の義務付け、それに(3)最低の一般教育の義務付けと軍以外の機関におけるこの一般教育の実施、である。
 プロイセンでは、一八〇八年八月六日の行政命令で将校団へ加入する際の階級的制約が撤廃された。同時に将校団の基礎的能力を保証するために、志願者を教育、試験するための各種要件の詳細な検討が進められ、基礎が固められた。だが一部に依然として貴族への優先的配慮が温存されており、適当な家柄のバックグランドを持たない志願者が閉め出される可能性はあったが、非貴族出身者が常に将校団の重要な構成分子を成していた。正規軍部隊の将校団における非貴族出身者の割合は一八一五年時点のおよそ二分の一から、その後の反落によって一八六〇年におよそ三分の一まで減少したが、その後その割合は着実に増加し、第一次世界大戦直前にはおよそ三分の二にまで達していた。一方これに対し技術部隊は大部分中産階級出で占められていた。
 将校団へ加入する際の階級的制約の撤廃を支えたのは、志願者を教育、試験するための各種要件の整備である。当初は将校を目指す志願者に対し、ギムナジウム(日本の高校に相当)卒業生には連隊の大佐の推薦を必要としたこと、あるいは元将校の子息にはその代わりに士官候補生学校への入学を課した。志願者の教育と試験に要求される諸条件は一八六五年に一段と厳格化され、貴族出、中産階級出に関係なく、すべての将校の基本的能力を保証し得るまでに高められた。その結果その内容は他のすべてのヨーロッパの陸軍と比較して、一段と高いレベルに到達していた。将校を目指すものはギムナジウムを卒業して大学入学資格証明を取得するか、あるいはそれに失敗した場合、厳格な六日間の一般試験に合格するか、のいずれかが要求されていた。この一般試験は生徒の実際的知識より知的能力や分析能力をテストするように作られていた。将校のおよそ三分の二は、すべての社会的階級の生徒に門戸を開いていたギムナジウムとその他の学校の両方からの出身者であり、残りは、元将校の子息のために国が維持する士官候補生寮(卒業生は士官候補生学校へ入校)からの出身者であった。プロイセン将校の技術的熟達度は、士官候補生寮のトップクラスの少数の生徒は除外して、すべての新加入者に対して、六ヵ月間下士官兵として服務し、九ヵ月間師団学校に通い軍事専門訓練を受け、それから軍事専門科目について将校の執り行う試験に合格する過程を課すことによって保証されるようになった。

 フランスでは革命によって、加入に際しての貴族の制約が一掃され、これ以降は家柄が軍の辞令に対する公式の前提条件となることはなかった。王政復古の間に旧方式に戻そうとする強硬な圧力が存在していたが、加入方法として、各種軍学校または下士官兵からの選抜競争によってのみ許可するという原則が確立し、同じような基準が海軍にも適用された。十九世紀を通して、陸軍でも海軍でも貴族の将校の割合は変動を伴ってはいたが、貴族の間で軍歴に対して強い関心が寄せられていたことを反映し高い比率を保ったまま推移していた。また将校の三分の一から三分の二は軍学校出身者とし、残りは少なくとも四年勤務した下士官兵上がりとすると規定されていたが、軍学校出の将校は十分な一般教育と専門教育の成果を身に付けていた。
 フランスにはプロフェッショナルな教育を行うための制度として、次の三種類の機関が存在していた。第一のエコール・ポリテクニーク(一七九四年創立)は、陸軍の砲兵将校と工兵将校、海軍の海兵隊砲兵士官、造船技師、それにその他の技術専門家の育成に当たっていた。第二の陸軍士官学校(略称サン・シール)は騎兵将校と歩兵将校を養成する目的で一八〇三年に設立され、第三の海軍学校(現在のブレスト海軍士官学校)は一八一〇年に設立された。
 これらの学校への入学はすべて競争試験によっており、ポリテクニークとサン・シールの場合、志願者は通常十六才から二十才であり、海軍学校の場合は十四才から十六才であった。ほぼ例外なく志願者はリセ(lycee:フランスの後期中等教育機関、日本の高等学校に相当する)で普通課程を終了していることが前提とされていた。フランスではプロイセンにも増して、将校は普通課程の中等教育を終了していることが当然視されていた。サン・シールとエコール・ポリテクニークの課程は二年であったが、サン・シールの初年度のカリキュラムは大部分が科学科目であり、第二年度はほとんど軍事科目であった。一方エコール・ポリテクニークでは、教育はもっぱら科学科目と技術科目に特化しており、それ以外の教科は武術および地形学に関する一教科に限られていた。一方海軍学校の生徒は、二年間ブレストで一般科目とプロフェッショナル科目を学んで、その後一年間練習船に乗組んで実務的な教育を受けていた。

 将校団に加入する際の貴族の条件は、フランス軍やプロイセン軍に較べ、イギリス陸軍でより長く存続し、購入制度が最初に廃止されたのは、一八〇二年にサンドハースト王立陸軍大学が設立されたときであった。陸軍大学に入るためには最高司令官の推薦が必要であったが、卒業生は購入不要で新辞令を受けることが可能となった。その後十九世紀の中頃にかけ、購入不要で加入可能な道をさらに広げようとする様々な取組みが実施され、最終的に加入時の貴族の資格がイギリスにおいて公式の地位を失ったのは、購入にかかわる全制度の廃止が決定された一八七一年のことであった。一方イギリス海軍における「艦長の使用人」としての加入制度は、一七九四年に廃止に向けた取り組みが進められ、最終的に一八七〇年に廃止が実現した。このようにイギリス海軍の加入制度における艦長任命権の撤廃は、イギリス陸軍の加入制度における購入制度の撤廃とほぼ同一歩調で進められたことになる。
 一八〇二年のサンドハースト王立陸軍大学の設立、一八〇六年のウールウィッチ王立陸軍士官学校の再編成と拡張、それに同じ年の海軍兵学校の王立海軍大学への改編を行うことによって、イギリスはプロフェッショナルな予備教育を実施するのにふさわしい機関を一通り揃えることになった。しかしこれらの学校への入学がすべての将校に義務付けられていた訳ではなく、そのうえイギリスでは十分な一般教育を施す体制も整えられていなかった。というのも生徒はパブリック・スクールからウールウィッチやサンドハーストに入学していたが、イギリスのパブリック・スクールはギムナジウムやリセと同等の教育を授けていなかったからである。

 (2)昇進
 将校団へ加入するためのプロフェッショナルな基準の確立に続き、将校団内での昇進のためのプロフェッショナルな基準が確立されていった。全体的にこの新しい昇進制度は年功による昇進の形態をとっていたが、選抜による昇進方式も一部取り入れられていた。

 プロイセンでは、シャルンホルストが昇進の前提条件として試験を実施するという方式を導入し、同時に副収入への依存度を下げるために将校の給与を引き上げた。その結果、有能な将校が参謀本部団の中で速やかに昇進する道が開け、正式に承認された規則が未整備であったにもかかわらず、縁故や情実は将校の昇進において枝葉的な役割を果しているに過ぎなかった。大尉までの昇進は一般に年功によっていたが、非常に有能な将校、とくに参謀本部または高級副官の任務を得た者は、さらに速やかに昇進する道が用意されていた。大尉より上の階級では、昇進は部隊または軍団内で行われ、年功制がより厳しく遵守されていたが、昇進の候補から外れた将校は、年功による昇進が曲がり角にきた時点で退職することが求められていた。大部分の将校は順送りに少佐まで昇進することを期待していたが、そのあと少佐から大佐まで昇進する間に多数の者が退役した。また工兵科と徒歩砲兵科においては、将校を除隊させるための裏付け資料とするため試験が実施されていた。

 一八一八年に制定されたフランスの法律は、昇進制度から非プロフェッショナルな要素を排除しようとする試みであった。この制度では、中佐までの昇進のうち三分の二を年功、残り三分の一と大佐以上の昇進を選抜によって行うと規定した。しかし年功重視は服務期間を不必要に長期化させ、また貴族の情実を完全に排除することもできなかった。そのため一八三二年の七月王政下で大幅な改定が行われ、各階級の必要服務期間が短縮され、さらに少佐への年功昇進の割合は三分の二から二分の一に減少した。この法律は「陸軍憲章」と呼ばれるにふさわしい内容を持ち、軍法会議による処罰を除き、将校の地位を保障した点に大きな意義があった。以後、各部隊は毎年昇進に適格な将校の名簿を提出し、それを委員会が審査する仕組みが整備された。さらに一八五一年には総合的な退職年金制度も導入され、十九世紀中頃までに公式の昇進規則が成立したものの、依然として制度は乱用されやすく欠陥を抱えていた。
 海軍もまた陸軍と類似の問題を抱えていた。昇進には下位の階級で二~四年の勤務が必要であり、場合によっては指揮経験が求められた。最低位から中佐までの昇進は年功と選抜の併用、それ以上の階級は選抜のみであった。しかし十九世紀末には高級将校の退役が遅れ、昇進機会が狭まり、数少ない空席を巡って縁故や情実が横行した。帝政期には能力が重視されていたものの、一八七〇年の第三共和制初期には縁故が昇進の必須条件と化し、提督や大臣の子息が異常に優遇される事例に対して新聞から強い批判が寄せられた。こうした不満の高まりを背景に一八九〇年の改革で制度は改定され、一八二四年以来情実の温床とされた海軍省評議会が廃止され、新たに監査官制度が設けられて昇進資格の判定を行うことになった。

 イギリスでは十九世紀を通じ、政治と購入制度の影響が徐々に排除されていった。一七九四年に最高司令官の職が新設され、陸軍は政党政治からある程度独立したプロフェッショナルな長を頂点に持つ体制となった。最高司令官は次第に任命や規律に関する権限を文民の大臣から引き継ぎ、一八六一年には陸軍の指揮・規律・任命について全面的な責任を担う立場に到達した。彼が従うべき権威は、君主の一般指揮権と陸軍大臣の責任だけとなり、以後は将官が部下に関する半年ごとのレポートを提出し、下級将校の昇進には試験が必須となった。また参謀本部勤務には指揮幕僚大学の全課程修了が義務付けられた。
 しかし購入制度が残る限り、真にプロフェッショナルな昇進制度は成立し得なかった。一八五六年当時、大尉の任官には約二千四百ポンド、中佐には七千ポンドが必要とされており、将校の給与がウィリアム三世以来据え置かれていたため、裕福でなければ軍歴を維持できなかった。この制度は一八四六年にグレイ卿が、一八五〇年には王立委員会が厳しく批判したが、依然として改革への抵抗は強かった。理由は、購入制度が国家と陸軍の結びつきを強め、財産権を共有することで軍の忠誠を担保するという政治的意義を持っていたからである。ウェリントン公ら保守派は、財産家による伝統的な陸軍を「雇兵軍」に置き換える試みに強く反対し、プロフェッショナル化を不安視した。
 転機は一八七〇~七一年の普仏戦争であった。プロイセン軍がフランスを圧倒する姿を目の当たりにし、将校教育の重要性が痛感された。一八七一年、カードウェル卿が購入制度をついに廃止し、年功と能力評価に基づく昇進制度を導入した。議会には依然として「プロフェッショナル軍」への警戒が根強かったが、プロイセンの成功が大きな説得材料となった。カードウェル自身も「勇敢さや英雄的行為は、プロフェッショナルな訓練なしには役立たない」と強調し、改革を正当化した。
一方、海軍は陸軍に比べてはるかに容易に改革が進んだ。十九世紀初頭にはすでに政治的影響はほぼ排除されており、購入制度も存在しなかった。さらに退役制度が整備され、一八六〇年以降の昇進は「地位」ではなく「階級」を基準にすることが決定された。少尉候補生と中尉の昇進は試験によって、大尉と中佐は選抜によって、それ以上は年功によって行われる仕組みとなり、透明性と公正性が陸軍よりも早く確立されたのである。

以上翻訳原文をChatGPTにて要約。

 (3)教育
 戦争の科学がその広がりと複雑さを増すにつれ、戦争の科学の高度な研究を行うための機関の必要性が次第に高まっていった。プロイセンは他のすべての大国にかなり先んじてこの必要性を認識しており、一八一〇年にシャルンホルストがベルリンにかの有名な陸軍大学(Kriegsakademie)を設置した。この機関は戦争の科学についてより高度な研究を行うための軍事総合大学となることを意図していたが、将校は五年の軍務を終え、指揮官より職務遂行の優等評価を得ると、十日間の特別試験を通った後入学が認められていた。通常毎年六十人~七十人の志願者の中から四十人が選抜され、必修科目として戦術、軍事歴史学、兵器科学、野戦築城と恒久築城、軍事行政・政治行政と経済、数学、砲術、特別地理学と特別地質学、幕僚任務、それに軍事法律学が課せられていた。課業のおよそ半分は選択科目であり、一般歴史学、一般地理学、論理学、物理学、化学、文学、上級測地学、高等数学、フランス語、それにロシア語の中から希望する科目を選択することが可能であった。スタッフには軍人と文民の両方の教官がおり、学内には優れた図書館が設置されていた。陸軍大学はプロイセンのプロフェッショナリズムの焦点に位置する機関であった。設置後暫くすると、ここへ入学することが高位階級への昇進、あるいは参謀本部の有利な地位の獲得のための必須条件となった。長い間この大学は、ヨーロッパにおいてこの種の機関としては唯一のものとして、その独走的地位を維持していた。その影響を表す一つの尺度は、次の推定― 一八五九年時点におけるヨーロッパの軍事的文献のおよそ五〇パーセントがドイツで出版されたという推定―に表れている。陸軍大学では下位の諸学校と同じように、教育上の主要な重点は記憶中心の詳細な実際的知識より、むしろ学生の総合的な理解力と幅広い理論的能力を高めることに置かれていた。外国の評論家は、この大学が「独立独行(セルフリライアンス)」を奨励することに力点を置き、「精神(マインド)を育み鍛錬し、熟考の習慣を奨励する、高い教育目標」を掲げていることに驚嘆した。現代の教育理論の基準で判断しても、このプロイセンの軍事教育制度は、十九世紀のヨーロッパにおいて、民間および軍も含めて、間違いなく最も高度な部類に属するものであった。

 プロイセンと同様フランスも十九世紀初頭に上級専門学校を数多く設置したが、フランスにはプロイセンの陸軍大学に相当する機関は存在しなかった。わずかにそれに近い唯一の機関は、一八一八年にサン・シールによって創設された幕僚のための学校、参謀本部実習学校であった。入学はサン・シールとエコール・ポリテクニークの少数の最優秀の学生と現役の陸軍少尉に限られており、志願者はすべて軍事科目に関する厳格な試験に合格することが要求されていた。教科課程は二年であったが、プロイセンの陸軍大学のカリキュラムに較べ事実上ずっと限定的であり、また初歩的なものであった。それでもこの学校に入学することは参謀本部団へ任命されるための必須条件となっていた。しかしフランスのプロフェッショナリズムの他の機関と同じように、十九世紀の間この参謀学校は内容的にそれほどの進歩を見せていない。ベルリンのフランス大使館付の一武官が一八六〇年代に所見を述べていたように、フランス軍の教育機関はすべて、プロイセンの陸軍大学と比較した場合「単なる農学校」に過ぎないものであった。一八七一年の普仏戦争の敗北後、フランス軍将校は、一八〇七年にプロイセン軍将校が採った行動とちょうど同じように、非公式ながら軍事に関する自己学習の動きを組織化することに着手した。一八七四年に政府は、一委員会にプロイセンの陸軍大学の有用性を研究するよう指示し、一八七六年には、高級将校のための特別課程が参謀学校内に設置される運びとなった。さらに最終的に一八七八年に、正真正銘の陸軍大学である高等軍学校が設立されるに至った。この学校への入学は競争試験によっており、二年の課程が、将来の高級指揮官や幕僚の地位が見込まれる大尉と中尉のために用意されていた。この軍学校はその後消長を重ねたが、その設立以降、フランスの軍事教育は一八七〇年以前の状態に較べ、はるかに高度な水準を維持することが可能となった。

 イギリスは軍事教育の高等機関を設立することでフランスに遅れをとった。一七九九年にヨーク公が、幕僚のための将校を教育する専門学校を開設したが、一八〇二年にこの学校は王立陸軍大学と共に再編成され、上記の幕僚課程はこの大学の上位学部に位置付けられることになった。しかしこの上位学部はイギリス軍の中で比較的限定的な役割しか果たし得ず、一八五七年に分離され、独立した幕僚大学として再出発した。しかし依然としてプロイセンの陸軍大学と比肩し得るレベルにはなく、イギリス陸軍が真にハイレベルの高等軍学校を設置するまでにはさらに長年月を待たねばならなかった。一方海軍の高等教育は、一八三七年にポーツマスに王立海軍大学が上級学校として改編された時にその幕開けを迎えた。一八七三年にこの大学はグリニッジへ移設され、イギリス海軍の高等教育のための中枢的存在となったが、その目的は少尉候補生より上位の士官を対象に、「海軍のプロフェッションにかかわる理論的、科学的学問の全分野」に亘って教育を施すことであった。

 (4)幕僚
 プロイセンの卓越性はプロフェッショナルな幕僚を育成したことに最も明白に表れている。プロイセンの一般幕僚の正確な発足期日は一八〇三年十一月二十五日に遡るが、それは国王が既存の主計総監の補給幕僚を真の一般幕僚に改編することを命じたときのことである。この国王令の下では、将校は特別試験に合格した者に限り幕僚任命が保証され、任命後は、幕僚の地位と連隊の任務の間を交互に勤務するよう規定されていた。また参謀本部の任務は二種の範疇に分類されていた―軍事作戦の各種基本原則の探究、開発を含む恒久的任務と、現下の軍事問題や戦争計画の準備にかかわる特別任務である。
 この参謀本部は、プロイセンが一八〇六年にナポレオンに敗北する前は、効果的に機能する機会は皆無であった。しかるに敗北後の一八〇八年にシャルンホルストが改革の断行に着手し、幕僚の任務のより正確な再定義、ベルリンの大参謀本部と野戦軍参謀本部の分離、幕僚の地位と陸軍大学との関連付け、そして二元的指揮(デュアルコマンド)制度の創設を実現した。この二元的指揮制度によって、幕僚将校は幕僚の責務と指揮官の責務を同時に果たすことになったが、以後ナポレオン失脚後の平時においても、戦時に果していたこの機能をそのまま引き継ぎ存続させていた。十九世紀全体を通して、参謀本部はプロイセンのプロフェッショナリズムの機構的牙城の役割を担い続けたが、最初の数十年間は、自らの地位を固め、広く世に認知されるため、貴族の反動的中心勢力であったプロイセン陸軍の二機関、陸軍省と人事閣僚部門の両者と闘わなければならなかった。しかし参謀本部は、一八五七年にその長となったフォン・モルトケのリーダーシップの下で、急速にその優越的地位を固めて行った。モルトケの科学的かつ合理的な専門知識・技能はドイツ将校団の崇高な理想となり、一八六〇年代以降、参謀本部の任務はドイツ陸軍で最高の憧憬の的となった。参謀本部将校が身に着けるワインレッド・カラーのズボンのストライプは、将校団内の新しきエリートの象徴となり、プロフェッションの精髄として、知識、能力、そして義務への献身の最も高度な基準を象徴するものとなった。参謀本部将校にとって、プロフェッショナルな軍務の要求を満たすことは、将校団の他の如何なるメンバーにも増して、至上の価値を意味していた。「常に身を慎むべし(Always be more than you seem)」が幕僚将校に対するモルトケの訓令であった。その半世紀後、フォン・ゼークトは簡潔な言葉でその伝統の精神(スピリット)を要約している―

 形は変わるが精神は古より不変である。その精神とは陸軍の軍務における義務への無言・無私の献身の精神である。参謀本部将校は常に無名にとどまる。

 おそらくプロイセンのシステムの最も革命的な側面は、参謀本部の打ち出した次の前提、すなわち天才は不要でありましてや危険でさえある、信頼は優れた教育、組織、そして経験によって育成された普通人に置かれなければならないとする前提、にあった。このようなアプローチは、一方で個人を集団的意思と総体的知性の下に従属させる危険性を内包していたが、各個人が自らに相応しい立場を守って、自らの責任の範囲内で行動する限り、各個人に幅広い行動の自由を保証した。これは取りも直さず、軍事的天才に頼る十八世紀の理論に対するアンチテーゼであった。プロイセンの制度を目の当たりにしたイギリスの評論家たちは、他国の陸軍では特徴的な上官に対する盲目的かつ機械的な服従が、プロイセンでは目にすることができないこと、各将校が他の将校の任務を妨害することなく自らの独自の任務を成し遂げていることに深い感銘を受けた

 フランスでは一八〇〇年に、ポール・ティーボルト将軍が近代における最初の幕僚マニュアルを刊行した。しかし実際に初歩的な幕僚組織を創ったのはナポレオンの参謀長であるベルチエであった。その後王政復古の間に、サン・シールが幕僚団とそのための将校を養成する学校を創設したが、参謀本部そのものは設置しなかった。この幕僚団のメンバーは、国防省やその他の行政本部での部隊指揮の他に、外国駐在大使館付武官、あるいは上級軍学校の教官職に従事していたが、国防省内に独立した組織としての「大参謀本部」に類した組織は存在しておらず、また参謀長の職も設置されていなかった。従って幕僚将校の教育と任務は目的と焦点を欠いたものとなり、さらに一八三一年以降は、幕僚団は次第に製図や地形学に関連する狭い専門業務を取り込むようになった。加えてフランス軍の十八世紀的概念―高級将校は軍事エキスパートの助言や支援に頼らず、自らの固有の天賦の才に頼る人間であるとする概念(ナポレオン戦争やアフリカ戦争の影響で一層強いものとなっていた)―も依然として命脈を保ち、幕僚制度の発展に不利に作用した。そして幕僚団の能力レベルと、プロフェッショナルな幕僚本来の任務の適正遂行能力は、一八三〇年から一八七〇年に至る四十年間に、全体的に着実に下降傾向を辿っていった。その結果普仏戦争時点には、フランス軍幕僚の能力はどん底状態に達し、そのレベルはドイツ軍の幕僚とは全く別物であると言ってもさして驚くには当らないほどであった。

 大陸との度重なる戦いの間に、ウェリントンは有能なイギリス陸軍の幕僚の育成を図ったが、講和の締結と共に、イギリス軍の幕僚制度は多かれ少なかれ崩壊に近い状態に陥った。その結果十九世紀全期間を通して、イギリスには現代的意味での幕僚の不在状態が続いたが、クリミア戦争における陸軍の不用意な戦い方を契機に、幕僚制度の再興に向けた対策が講じられる運びとになった。その中で唯一後世に残ることになった成果は、一八五七年の幕僚大学の創設であった。しかしイギリス陸軍の幕僚は、総務部門と補給部門に限られた職であり、軍事作戦と軍事諜報活動、すなわち管理や補給と対照的な戦略と戦術の領域、に関する真の幕僚は不在のままであった。この欠陥は二十世紀初頭の十年が過ぎる間も依然として未解決のまま残されていたが、スペンサー・ウィルキンソン教授のような熱心な先駆者の活動と、ボーア戦争の教訓とが結び付いて、陸軍の建て直しを推進する運動に結実していった。まず一九〇四年に陸軍評議会の創設と参謀総長職の設置が実現し、数年後にはこの動きがさらに拡張され、帝国参謀本部を介して、諸自治領との軍事協力が実現した。

 (5)能力(コンピテンス)精神(エスプリ)
 国家に種々のプロフェッショナルな機関が設置されるに従い、必然的に将校の間にプロフェッショナルな能力(コンピテンス)精神(エスプリ)が芽生えていった。しかしイギリスはこの面で三主要国の中で最も後進状態にあった。というのも軍のリーダーたちの専門知識・技能は、同国の旧来の貴族的、社会的各種要因―二十世紀に至るまで将校団の中で終始重要な影響力を持っていた―の強い影響下にあったからである。一将軍の言によれば、一八九〇年のイギリス陸軍は、ウェリントンの伝統を信奉する分子と「陸軍のプロフェッショナル化」を目指す分子との間で分裂状態にあった。一方普仏戦争前のフランスでは、プロフェッショナル志向で知的傾向の強い将校は一般に疑いの目で見られており、反対に軍内部で横行していたのは個人主義であった―フランス第二帝政時代の陸軍の理想は、貴族的な「熱血漢、すなわち無際限の勇気と大胆さを身に付けた何のためらいも持たない人間」であった。このような知的活動の否定と、軍事教育制度および幕僚制度における偏狭かつ硬直した種々の制約事項が、一八七一年のドイツに対する決定的敗北要因を成していた。それでも敗戦後、一八七〇年代の改革により、プロフェッショナル精神(スピリット)がフランス軍の中で支配的となっていったが、フランスという国家の性質そのものをめぐるイデオロギー論争の存在によって、プロフェッショナルな精神はなおも引き続き行く手を遮られていた。
 プロフェッショナルな能力とプロフェッショナルな精神が最も発達した状態に達していたのはプロイセンであった。一八六六年の普墺戦争と一八七〇年の普仏戦争でプロイセン陸軍が示した、その滞りなく機能する実行力は、クリミア戦争における一八五六年のイギリス陸軍のぶざまな混乱状態、南北戦争のアメリカ陸軍、そしてプロイセンに敗れたオーストリア軍とフランス軍との対比において、一際抜きん出た高みにあったことを示している。プロイセンの各種軍学校の中核的重要性と参謀本部の重要な役割は、プロイセン陸軍に他国の軍に欠けている知的な過電流を印加していた。一八五九年にイギリスの一評論家が悄然として次のように論評している―

 教育がプロイセン将校にとって第一義的なものであるという事実は、彼らが自らのプロフェッションにおいて自己を完成させるための強力な梃子となっている―また気まぐれからではなく、能力によって確実に昇進する制度は、すべてのプロイセン将校をして、我がイギリス陸軍の将校を遥かに凌駕する高みに持ち上げている。

プロイセン将校団の精神はウランゲルやマントイフェルといった保守派の抵抗を押し切って、貴族階級的精神から軍事特権階級(ミリタリーカースト)的精神へと次第に変貌を遂げていった。十九世紀半ば以降、全将校の緊密な団結と友愛の重要度が、彼らの互いの社会的出自とは無関係に益々高められていったのである。その結果中産階級と貴族の間に存在していた従来の境界線は、今や軍人と文民の間に引かれる新しい境界線に置き換えられることになった。家柄に基づく貴族制が、教育と功績に基づく貴族制にとって代わられたのである。プロイセン将校は貧しくも、高度の専門的知識・技能を身に付け、規律正しく、献身的で、互いに堅く結び付けられたプロフェッショナルな共同体の必須の構成要素を成していた。その結果、成果として確立されたのはヨーロッパでは異色の団体精神(コーポレートエスプリ)であった。イギリスの軍事教育委員会の報告によれば―

 プロイセン陸軍の全将校は自らを、共通の絆と共感とによって結び付けられた只一つの集団―将校団―の一員であると認識している。この団体へ加入することは、固有の特権を与えられると同時に、特別な義務を負わされることを意味すると認識している。   

 
 ヨーロッパにおいてプロセンを中心に、プロフェッショナリズムの基本的制度が着実に確立されていく状況の中で、南北戦争後のアメリカ陸軍は、そのプロフェッショナル化の中心的推進者エモリー・アプトン将軍が、ウェストポイント学校長を務めた若手の改革者エモリ―・アプトン将軍を派遣し、その状況の調査・把握に努めていた。

七.ヨーロッパのプロフェッショナリズム―アプトン将軍の要旨、一八七五年
 貴族制度の遺物が執拗に残存していたにもかかわらず、一八七五年までに、プロフェッショナリズムの基本的制度がヨーロッパ主要大国の軍の中に着実に確立されていった。この状況が、アメリカのエモリー・アプトン(Emory Upton)将軍によって一八七五年に提出された、ヨーロッパの陸軍に関する要約した報告の中に明記されている。アプトンは、シャーマン(Sherman)将軍とベルナップ(Belknap)陸軍長官によって、ドイツの軍事制度を中心に、ヨーロッパとアジアの陸軍の組織、戦術、規律、それに教育を調査する任務を与えられていた。アプトンはその報告の中で、ヨーロッパ全域で広がりを見せていたプロフェッショナルな諸制度の重要性を力説し、それらをアメリカ陸軍に即時に導入することを強く訴えた―
一.将校団への加入は、軍学校(ミリタリースクール)を卒業するか、あるいは下士官兵がプロフェッショナルな教育課程を履修し、資格試験に合格した後昇進するかに限られている。

二.陸軍大学(ウォーアカデミー)は将校に将来幕僚や最高位レベルの指揮官になるために必要な戦争の高等科学を教育している。

三.参謀本部は「最高のプロフェッショナルな訓練」を将校に要求している。将校は幕僚と部隊指揮官をローテーションで勤務している。

四.「政府は陸軍の最高の人材を国益に貢献させるべく、確固たる熱意とプロフェッショナルな能力を有するすべての将校に対し、幕僚団への登用もしくは選抜による迅速な昇進の道を開いている」。

五.政府が将校の資質を把握できるよう、年一回あるいは二年に一回、指揮官は部下の「熱意、適性、特別な資質、それに人格」を評価するレポートを提出するよう要求されている。

六.「将校は国益に資することを唯一の目的として管理されている。それ故将校が無知、無能である場合、国家は個人レポートと特別試験の結果によって、その昇進を差し止める道を用意している。これにより軍務遂行上の支障を未然防止することが可能となる・・・」


プロフェッショナリズムの導入ーアメリカと日本

 アプトン将軍がドイツの軍事制度の調査に当たっていた丁度その時期、全盛期のモルトケの下に、創設間もない日本帝国陸軍は一八七〇年代に二度にわたって、桂太郎陸軍大尉(後に陸軍大将、総理大臣)を、日本陸軍の軍事制度整備の目的で派遣していた。桂はドイツ参謀本部で実際の勤務を体験し、その間親しくモルトケに接して直接その指導を受けたとされているが、プロイセン陸軍からの負の遺産と位置付けられる統帥権独立の弊習を学びこそすれ、「政治に関与しない陸軍」というモルトケの理念を学び取ることはできなかった。
 この点に関しては、後述の「3-2-3.アメリカのミリタリー・プロフェッションの創成」の中で改めて触れたい。

 以上ハンチントンは、プロフェッショナリズムの基本的制度が、十九世紀の初頭から後半にかけ、プロイセンを中心にヨーロッパ主要大国の軍の中に着実に確立されていく過程を詳細に分析してきた。その分析の最後の締めくくりとして、このプロフェッショナル化推進をもたらした根源的要因がクラウゼヴィッツの『戦争論』にあることを明快に提示していく。

八.プロフェッショナルな倫理の定式化―クラウゼヴィッツの『戦争論』、戦争の自律性と従属性
 複雑な戦争の科学とその戦争の科学を専門に追求するプロフェッショナルな機関とが実際に出現したことに伴い、十八世紀的概念―戦争は定義の不明確な機械的技能(クラフト)の集まりであり、将軍は生まれながらの天才であるとする考え方―が時代遅れのものとなったことが明確になってきた。これらの新情勢の顕現化に伴い、必然的に新理論の出現が俟たれることになったが、その最初の包括的かつ明確な定式化が、カール・フォン・クラウゼヴィッツによって、その死後一八三一年に発刊された『戦争論(Vom Kriege)』の中で提示された。重要なことは、クラウゼヴィッツが軍の改革の仕事を進める中でシャルンホルストやグナイゼナウの補佐役を務めていたという事実である。彼は一八一五年から陸軍大学(ウォーアカデミー)の校長を務めていた間に本書を著しているが、実質的に本書は、彼が以前携っていたこの軍の改革に知的な理論的根拠を与えるため著したものであった


以上ハンチントンは、新たに出現したプロフェッショナルな軍の機関を社会において如何に位置付けるか、新たな理論がクラウゼヴィッツによって提示されたとことを示したあと、軍事理論におけるクラウゼヴィッツの真の存在意義、その理論の根源的要素を明らかにし、戦争の本質とともに軍人のあるべき姿を示していく。

クラウゼヴィッツ本人と彼の著作を議論する際問題となるのは、前者の名声と後者の永久不変性を如何に説明するかということである。軍事評論家たちはこの赤鼻のプロイセン人を西欧社会の卓越した軍事思想家―軍事著述家のシェークスピアまたはゲーテ―と認め、彼の著作を軍事科学のバイブルと称することで事実上意見が一致している38。これらの大部分の評論家は、戦略と戦術の発展に対するクラウゼヴィッツの貢献、すなわちナポレオン的手法の本質に対する彼独自の解釈と系統的論述を高く評価してきた。しかしながら戦術に関するクラウゼヴィッツの考え方はかなり以前から時代遅れのものであり、戦略の原則についての彼の所説は他の多くの軍事思想家よりも特に優れているというようなものではない。彼の本質的な貢献は、彼の提示したより高レベルの分析の中に見られる寄与である。それは戦争の固有の本質に関するものであり、また同時に戦争と他の形態の人間活動との相互関係に関するものである。クラウゼヴィッツはもちろん彼を取り巻く当時の知的潮流から孤立していた訳ではない。他の軍事著述家たちも彼と同じ方向を向いて諸事模索しており、彼らの中には、『戦争論』の中で論じられている種々の重要事項を独自に予測している者も多く見受けられた。しかし彼らは一般に戦争の本質の中で起こりつつある変化の付随的な側面だけを取り扱っていたのである。これに対し、この変容の本質を理解し、それを明確に表現したのはクラウゼヴィッツ只一人であった。それ故彼は、社会主義理論の歴史の中でマルクスの占めていたのと同じ地位を軍事思想の中で占めているのである。『戦争論』に先行して発刊された大部分の著書は、『戦争論』に対して前置き的、断片的なものであり、そしてそれらは『戦争論』の中に組み込まれ、体系化されている―また後続の著書は大部分、『戦争論』の意味することに対する単なる注釈的、解説的なものに過ぎなかった。

 クラウゼヴィッツの理論の根源的な要素は戦争の本質に関する二元性の概念である。戦争はそれ自身の方法と目標(ゴール)を持つ自律的な科学であり、まさにそれと同時に、その究極的な目的(パーパス)が外部から与えられるという意味において従属的な科学である、という二元性である。クラウゼヴィッツが示したこの戦争の概念は、取りも直さず正真正銘のプロフェッショナルな概念そのものを表しており、まさしくすべてのプロフェッションの本質を体現するものである―何故なら、そのプロフェッションの概念とは、プロフェッション外の人間の思考と活動の影響を受けない固有の主題の範囲を設定することであり、加えて人間の活動と目的の全枠組み(フレームワーク)の中において、この主題の及ぶ範囲には限界があることを認識すること、であるからである。クラウゼヴィッツはプロフェッショナルな軍の倫理に関して、この他多くの基本的事項についても種々論じている。しかしこれらは付随的なものである。彼の独創性に富んだ貢献はあくまで、戦争の本質の二元性およびそこから導かれるプロフェッショナルな軍人の役割に関する彼の概念にある。この概念が示されれば、事実上プロフェッショナリズムに関するその他の事柄は必然的に後から付いてくる類のものである。

 戦争をそれ自体独立した科学であると考えたとき(戦争それ自体(Krieg an sich))を考えたとき)、クラウゼヴィッツにとって戦争の本質は(フォース)である。「戦争(●●)(●)従って(●●●)(●)(●)(●)我が(●●)(●)(●)(●)(●)(●)(●)(●)(●)(●)行為(●●)(●)ある(●●)」。この意味において戦争は如何なる制限をも許容しない。統率力(リーダーシップ)の科学は力ずくで敵を武装解除するか、殲滅する科学である。このことは理論の上では常に必然的事実であり、従って戦闘と流血を回避することは不可能である。「流血なしで勝利を得るような将軍の言うことは聞くまい」ということである。クラウゼヴィッツが戦争の本質は力の無制限行使であると強調したため、一部の評論家はこのことだけが彼の思想を特徴付けるものであり、彼がもっぱら血なまぐさい暴力の賛美者であると考えてきた―例えばリデル・ハート(Liddell Hart)はクラウゼヴィッツを「大量かつ相互虐殺のマフディー(Mahdi)」であり、「〝絶対戦争(アブソリュートウォー)〟の教義、勝負がつくまで戦うという理論の創始者」であると称している39。しかしこのことはクラウゼヴィッツに対する誤解である。戦争を理論上戦争以外のすべてのものと切り離して、抽象的に考えた場合に限り戦争は無制限暴力である。しかし実際は戦争は決して孤立した行為ではない。元来力は力自体を目的としているのではなく、社会全体の目的のために合理的に用いられるときに限り正当化されるものである。戦争は常に戦争の外部にある政治目的に従属しており、その外部の政治目的が戦争で用いる暴力の規模と性質を決定する。従って戦争の結末は決して無制限なものではない。「かくして、すべての分野の戦争がすべてを極限状態へ押しやる激しい力の法則の支配下にある訳ではない」のである。軍事行動の費用は、達成すべき目的に照らして取り決められるのであり、そしてその戦争の政治的目標は、戦闘期間全体を通して一貫して指針として維持され、その間弾丸は単に外交文書の代わりをしているに過ぎないのである。極めて著名なクラウゼヴィッツの格言によれば、「戦争は種々複合した戦争以外の諸手段をも含む政治的関係の継続状態に他ならない」。要するに戦争は「それ自身の文法を持っているが、それ自身の論理は持っていない」のである。

 クラウゼヴィッツによるこの自律的でしかも手段の科学としての戦争の概念は、戦争における専門家(スペシャリスト)の役目に関しても当然同じ理論が成り立つことを示している。戦争がそれ自身の文法を持っているということは、この文法に関するミリタリー・プロフェッショナルの専門知識・技能の習得が、当然外部からの干渉なしに行い得なければならないことを要求しているのである。本来「軍の軍事的価値」は、その軍がまさにこれから戦おうとする理由の中に見出すことはできない。それはちょうど弁護士の技能が、その依頼人の法律上の人の如何によって評価されないのと同じである。ある一つの軍事組織に本来備わっている固有の特質は、その組織の外部要因には依存しない独自の軍事的基準によってのみ評価され得るものであり、軍事組織の利用目的は、その軍事組織を評価するための項目には含まれないのである。「戦争の政治目的はまさに戦争の領域の外側にある・・・」のである。従って、戦争はそれ自身の論理と目的を持っておらず、それ故軍人は常に政治家に従属しなければならない。戦争を遂行するのはあくまで後者の責任である。何故なら戦争遂行は「国家政策に対して、より大局的立場に立った鋭い洞察を必要とする」からである。

 政治的観点が軍事的観点に従属するのは不合理である。何故なら政策が戦争を引き起こすからである―政策は知的な能力であるが、戦争は手段に過ぎない。その逆ではないのである。従って軍事的観点が政治的観点に従属するのが唯一可能な選択肢なのである。

陸軍大臣は詳細な軍事知識を身に付ける必要はない。実際はむしろ軍事知識の豊富な軍人の大臣がしばしば粗末な大臣となるのである。軍事的判断は、もちろん必然的に、政治目的との間で相互に影響し合う関係にある。従って政策決定に当っては、選択可能な種々の軍事的代替手段を用意しておかなければならない。クラウゼヴィッツは、政治家が戦争の目標とその実施内容を煮詰める際に、軍事力の限界を慎重に把握するよう軍事面から政治家に警告を発している。しかしながら、最後は政策が統轄しなければならない。確かに現実において、政策が「間違った方向に向かい、野心的目標、個人的利益、あるいは統治者の虚栄心を追い求めることがあるかもしれない」。しかしそれは軍人には関係のないことである。軍人のなすべきことは、政策は「社会全体のすべての利益を代表するもの」であると弁え、単にそれに従うことである。以上示した通りクラウゼヴィッツは、ミリタリー・プロフェッションに関する最初の理論的根拠を定式化する中で、同時にシビリアン・コントロールに関してもその最初の理論的正当化に貢献したのである。

 
 ハンチントンが世に先駆けてここに示す確信的な主張「クラウゼヴィッツの独創性に富んだ貢献はあくまで、戦争の本質の二元性およびそこから導かれるプロフェッショナルな軍人の役割に関する彼の概念にある」は、彼の歴史家としての優れた資質を示すものに他ならない。