プロイセンが一八〇〇年~一八七五年の間に創設した参謀本部の卓越性を、ハンチントンは前項において次のように端的に表現している―モルトケの科学的かつ合理的な専門知識・技能はドイツ将校団の崇高な理想となり、一八六〇年代以降、参謀本部の任務はドイツ陸軍で最高の憧憬の的となった。参謀本部将校が身に着けるワインレッド・カラーのズボンのストライプは、将校団内の新しきエリートの象徴となり、プロフェッションの精髄として、知識、能力、そして義務への献身の最も高度な基準を象徴するものとなった。
 この高度な基準を確立したモルトケの参謀本部が、一八七一年に成立したドイツ第二帝国において、その国家権力との間で如何なる関係を築き、その政治的影響力がどのように形成され変化したか、さらには大衆に如何に受け入れられたか、ハンチントンは原著「第五章 ドイツと日本―シビル・ミリタリー・リレーションズの実際」の中で明らかにしていく。
 具体的には原著では、第二節「二.ドイツ―プロフェッショナルな軍国主義の悲劇」において、ドイツ第二帝国の初頭から、ヒトラー・ナチスの支配した第三帝国が第二次大戦で敗北するまでの期間を通して、ドイツが経験した多様なシビル・ミリタリー・リレーションズの歴史が詳述されるが、ここでは、その冒頭部分に当たる項目「帝政の均衡、一八七一年~一九一四年」を取り上げ、「歴史上他の如何なる将校団にも抜きん出て理想型の軍の倫理に近付いていた」ドイツ軍の実態を追ってみよう。なお、ドイツ軍の全史については別途項を改めて紹介したい。

帝政時代の均衡、一八七一年~一九一四年
 一八七一年から一九一四年までの帝政ドイツのシビル・ミリタリー・リレーションズは、並外れて優れた不偏的シビリアン・コントロールとミリタリー・プロフェッショナリズムの存在を映し出していた。これらは、軍の権威が高度でしかもその影響力の及ぶ範囲が限定されていたこと、軍の政治的影響力を生み出す基となる社会的基盤が広くかつ緩やかに変化していたこと、加えて国のイデオロギーが軍に好意的で保守的であったことに基づいて築き上げられたものであった。しかしこの時代の最後の十年間に起こった国家環境における種々の変遷により、この均衡状態が次第に損なわれ始め、最終的には第一次世界大戦で完全に破壊されるに至った。

ミリタリー・プロフェッショナリズム 現代ドイツはプロイセンからヨーロッパで最もプロフェッショナルな将校団を受け継いだ。その中心的要素は参謀本部と陸軍大学であった。前者は軍事作戦に対して科学的、合理的アプローチをとる組織であり、後者は戦争の科学の分野で幕僚団と最高司令部のための将校を養成する機関であった。これらを支えていたのは、専門教育と一般教育の両方を義務付けているドイツ独自の加入と初期訓練の制度であった。ドイツの各種軍学校と幕僚部門以上に、戦争を真剣に取上げ、注意深く研究した機関は他に存在しなかった。抜群の専門的能力、高い知的到達レベル、義務への確固たる献身―これらは特に参謀本部の、それに程度の差こそあれ全体としての将校団を象徴する特徴であった。ドイツのプロフェッショナリズムのこの卓越性は、他の強国の軍人と政治家の高い評価を得た結果、大国小国、先進国後進国を問わず、競ってドイツの原型に倣い、真剣に彼ら自身の軍の制度を築く動きに結び付いていった
 ドイツの組織化されたプロフェッショナリズムは、ドイツの軍の精神に内在するプロフェッショナルな倫理の優越性の中にも映し出されていた。『戦争論』は将校団のバイブルであった。帝政時代の二人の傑出した軍の指導者―一八五七年から一八八八年まで参謀総長であったフォン・モルトケと一八九一年から一九〇五年まで同じ地位にあったフォン・シュリーフェン―は両者とも、クラウゼヴィッツの信奉者であった。彼らの考え方、著書や行動は将校団の知的で道徳的な格調高さを形作る礎を成していた。彼らの影響でドイツ軍の価値観と姿勢は、多分歴史上他の如何なる将校団にも抜きん出て理想型の軍の倫理に近付いていた。このプロフェッショナルな価値観の優れた強みが、シビリアン・コントロールと国家政策における戦争の役割という二つの基本的問題に関して、将校の考え方に色濃く反映されていた。
 戦争は政治の手段(インストゥルメント)であり、それ故軍人は政治家の下位の(ジュニア)協力者(パートナー)であるという教義が将校団の中で広く受け入れられていた。・・・・モルトケとシュリーフェンの両者は、政治と戦争が独立した実体であり、同時に緊密な関係にあることを認識していた。モルトケはシュリーフェンより政治の事情に通じていたが、政治的野心とは無縁であり、軍の立場をことさら強く押し出すようなことは自制していた。「政治活動に関与しない陸軍」という理念が彼を導いていた。

 作戦行動中の指揮官は、とモルトケは明言している、常に勝利を眼前の目標に掲げて戦わなければならない。しかし政治家が指揮官の勝利や敗北をどう処置するか、ということは指揮官の領域ではない。それは政治家の領域にある。

 さらにモルトケ以上にシュリーフェンは政治を忌避し、最優秀の軍事専門家として、自身はもとより参謀本部を厳しく軍の問題に専念させた。ドイツの軍の考え方における合理主義もまた、それ自体を目的とする戦争を賛美することを許さなかった。戦争は避けることはできない―それは誰しも否定し得ない事実である―ましてや望ましいことでもない。かくして人間はただ戦争に耐えなければならないのである。「貧困と悲惨は」、とモルトケは述べている、「それに病気と苦痛と戦争はすべて、人間の運命と人間の本質において不変の要素である」。軍の多くの同僚と同様にモルトケは、ドイツにとって戦争は「国家の災難」であると信じていた。彼の取り組みの姿勢は、空想的な浪漫主義者のそれではなく、合理的な悲観論者の姿勢であった。
 一方海軍の将校団は、折に触れ好戦的かつ帝国主義的な動きを見せていた。というのも彼らは、当時の帝国主義の熱い思いの中から生まれた新組織として、その生みの親である社会からまだ完全に分化、独立していなかったからである。しかし陸軍のリーダーたちはほぼ一致して、海軍のこの好戦性と帝国主義傾斜の姿勢に異を唱えていた。ファークツが述べていたように、事実陸軍は「一九一四年以前は只一件の作戦以外は非侵略的」態度を守っていた。その作戦とは、軍にとって悪夢のような状況にあたる、二正面戦争に対処するため計画されたものであったが、この作戦においてドイツは、一方の戦線で迅速かつ決定的な勝利を手中に収める必要に迫られていたのである。参謀本部は一九〇二年の機密文書の中で次のように明記している―

 我々は何物をも征服することを欲していない。我々の望んでいるのは単に現に我々が保持しているものを守ることだけである。おそらく我々は将来決して攻撃する立場に立つことはないであろう。むしろ常に攻撃される側にある。しかしここで必要とされる迅速な勝利を確実にものにするには攻撃しかない。

ドイツ軍は実際、国家の安全保障に対してほとんど病理学的とも言える懸念を示していた。軍のリーダーの多くは、戦争を主唱する状態からはほど遠く、戦争を政策の最後の手段と見ていた。そのうえで陰鬱で不吉な予感を抱いて、熱に浮かされながら対策を講じ、戦争に備えていた。


ここでドイツの二正面戦争(シュリーフェン・プラン)は、一九七一年の国家統一後のドイツが、ロシアとフランスの二強国に東西を囲まれているという不利な状況を打開するために採った戦略である。
 引き続きハンチントンは、プロフェッショナリズムを確立したドイツ軍が、国家権力との間で如何なる関係を築き、その政治的影響力がどのように形成され変化したか、さらには大衆に如何に受け入れられたかを論じていく。

国家権力 ドイツのプロフェッショナリズムを維持するのに与った国家権力の構造は、三つの要因がユニークに組み合わされたものであった。第一の要因は、軍の権限の範囲が厳密に軍事に限定されていたことである。軍は国内経済政策を決定することでは如何なる役割も担っておらず、また外交政策は専ら首相と外務大臣が管掌しており、これに対し参謀本部は厳密に軍事に関する問題に専念していたのである。当然かつ適切なことであるが、外交政策に関しては参謀総長と国防大臣が軍の見解を提示していた。同様に当然かつ適切なことであるが、両者の見解は通常文民の当局者たちと異なっていた。結局はしかし決定を下していたのはこれらの文民たちであり、将軍ではなかった。例えばビスマルクは、オーストリアとフランスとの平和条約に関して、また一八八〇年代における対ロシア政策に関して、モルトケの助言を拒絶した。・・・・要するに軍は、軍以外の強力な部署や高官による横割りの統制によって、軍自身の領域の中に封じ込められており、軍が自己の権力の拡張を計ろうとする分野は、これらの部署に抑えられていたのである。
 軍の権力を抑制した第二の要因は、文民の権限と軍の権限の間に相対的な調和が存在していたことであった。軍の権限が多数の部署に分割されていたのに対し、文民の権限はドイツ皇帝と首相の手中に集約されていた。帝国議会(ライヒスタック)は軍事に関しては控えめに攻撃する程度で、決してそれ以上の役割を果たそうとする意志はなく、軍事政策に対する議会の統制力を高めようとする動きも、シビリアン・コントロールを弱体化させるほど強いものではなかった。そのうえ将校団は、無条件で皇帝に忠誠を誓っており、また自らをそのように拘束することで行政府を立法府と張り合わせ、それによって自らの権力の強化を図るような行動はとらないと強く誓っていた。また軍の権限は第一に陸軍と海軍の間で分割され、さらにそれぞれその中で再分割されていた。具体的には陸軍と海軍は次のような三部門に分かれた司令部組織を備えていた―(1)(ミニストリー)、通常はプロフェッショナルな将校をトップに置き、管理、政治、後方支援に関する任務を担当する―(2)閣僚(キャビネット)、同じく将校をトップとし人事問題に専念する(3)参謀(スタッフ)、作戦計画を専門とする。これらの司令部のいずれも、艦隊と軍団に対する指揮権は保持しておらず、そのため司令部の六人の長および軍団と艦隊の総指揮官である将軍と提督はすべて直接皇帝に報告していた。従って皇帝は彼に提示される軍の助言をすべて受け取ったあと、その中から自らの判断で最終方針を選択、決定することが可能であった。そのうえ陸軍においては、上記の省、閣僚、および参謀本部の間に強い競合関係が存在しており、当初は省が支配的組織となっていたが、十九世紀が経過する間にまず閣僚が、続いて参謀本部が優位な地位を獲得するに至った。最終的にはもちろん参謀本部が完全に優位な立場に立つことになっていたとはいえ、これら三部門間には第一次世界大戦に至るまで不安定な権限の均衡状態が存続していた。
 しかるに、軍の権限がその適用域を限られ、多岐に分割されていたという効果は、その権限レベルが高かったという効果と均衡が取れていた―この高い軍の権限がドイツのプロフェッショナリズムを維持するのに与った第三の要因であった。その軍の権限の高レベル化をもたらしたのは、軍の最高位のリーダーたちすべてに与えられていた、最高国防卿としての皇帝に対する拝謁資格Immediatstellung)であった。この権限が軍に対する縦の統制を弱め、軍の長の権限を高めたのである。というのも皇帝は、軍の長の助言に全面的に頼っていたため、彼らはほとんど完全な自律権を身に付け、彼ら相互間の意見の不一致の場合以外は、自らの組織を他の部署との干渉なしに自由に差配することが可能であったからである。また軍の権限の及ぶ範囲が限定されていたことと、文民の権力に統一性が保たれていたことは、政治から軍を遠ざける方向に作用したが、同時に皇帝に対する軍の拝謁資格が軍から政治家を遠ざけることに作用した。全体的にその時々のイデオロギーの環境が定まると、それに応じて全体としての権限の形態が、シビリアン・コントロールとミリタリー・プロフェッショナリズムを最大化するよう、特有の形をとって納まりを見せていた。

政治的影響力 帝政時代の将校団の政治的影響力は次の三つの重要な特徴を示していた―(1)将校団とユンカー貴族階級との結び付きの段階的な弱まり―(2)一八八八年から一八九七年までの軍の指導者の政治への一時的侵入―および(3)ドイツ国民の間における軍のリーダーと軍歴の栄誉に対する人気の広がり、である。
 一八六四年に始まる統一戦争の十年間は、将校団の三分の二以上は貴族階級から募られていたが、中産階級が軍歴に対する自らの権利を成功裏に主張するにつれて、帝国はこの比率の着実な低下を目の当たりにすることになった。ちなみに一九〇五年に参謀本部に所属する百二人の将校のうち、ルーデンドルフやグロナーのような未来の巨星を含む四十四名が中産階級出であったが、一九一三年までに、これらの構成分子は全将校団の七〇パーセントを占めるに至った。一方海軍の将校団は一八九〇年以降行われた目覚しい拡張によって、その規模が拡大し影響力が高まったが、彼らと中産階級との結び付きは一層緊密なものとなった。このような将校団と貴族階級の絆の弱まりは、一方で軍の利害関係が上流階級の利害関係に左右されるという可能性を弱めることになり、この点でこの絆の弱まりはプロフェッショナリズムの強化を加速する方向に働いた。しかし他方で、それは軍の一般世論への依存度を高めるという効果をもたらした。ユンカー貴族の立場は非常に保守的で、軍に好意的であったが、一般世論はこの傾向とは正反対に、明らかに非保守的で変化し易いものであった。
 帝政時代には終始ミリタリー・プロフェッションと政治の間に引かれた境界線をいずれの方向にも横切るような者は稀にしか見受けられなかったが、これには重要な例外があった。一八八八年から一八九七年までの間、文民の政治指導力に真空状態が生じ、多くの軍人がこれを埋め合わせる形で政治の世界に侵入したのである。この状況は一八八八年の皇帝の死、同じ年のモルトケの退役、それに一八九〇年のビスマルクの引退が、ほぼ同時期に集中したことに起因している。あとを継いだ若い君主ウィルヘルム二世は、じきじきの統治を強く好み、彼の立憲上の助言者の責任と役割にほとんど敬意を払わなかった。同時に軍人に対し、また軍事上の取るに足らない事柄に対し、強い個人的な好みを持っていた。モルトケの地位はヴァルダーゼーに引き継がれたが、ヴァルダーゼーは軍人ながら政治的手腕と政治的野心を持ち、新君主のお気に入りとして様々な分野で自身の影響力を広げることを強く望んでいた。・・・・彼は、軍の倫理の二つの基本要素、戦争は政治の手段であり、それ故軍人は政治家の下位の協力者である、を否定した。しかし彼は間もなく皇帝の寵愛を失い一八九一年の初めに解任された。彼の参謀総長としての三十ケ月は、モルトケが務めた三十二年と彼の後継者シュリーフェンの十四年とは対照を成すものであり、基本的に帝国の将校団には場違いな存在であった。しかし、後の一九二〇年代および一九三〇年代の軍人政治家、例えばシュライヒャー、ライヒナウ、ブロンベルクたちの先駆者となったのである。ヴァルダーゼーの後継参謀総長シュリーフェンは、専ら専門的問題に自らの関心を限定した結果、軍の影響力は再びプロフェッショナルな境界線の内側にとどめられることになった。
 一八七一年以降国民全体に及んだ軍の人気の高まりは、将校団の貴族階級との結び付きの弱まり以上に顕著な社会現象であった。この高い人気は、一八六六年の普墺戦争と一八七〇年の普仏戦争の大勝利に起源を持つものであり、この大勝利によってモルトケは、国民的ヒーローに仕立て上げられ、軍事予算は第一次世界大戦に至るまで安定的拡大を保証されることになった。平時のこのように長い期間、軍歴や将校がこのウィルヘルム統治時代のドイツに存在したような大衆的信望を勝ち得たことは、現代西欧社会においてかつて経験することのなかった現象であった。軍人は「何の挑戦をせずとも国家の最高の人間」であり、参謀本部は軍の英知の神託所、国家の安全保障の保証人として畏敬の念をもって迎えられた。「軍人は今や神聖化された人間であり、大尉は若き神の如く、市井の予備役大尉は半神半人の如く世を闊歩していた」。

大衆の態度 大衆の心が軍の倫理に好意的である限りは、軍の広範囲にわたる人気はミリタリー・プロフェッショナリズムの一つの堅固な基盤を構成していた。一九一四年の軍は一八八〇年と同じく依然として人気を保持していた。しかるに、一九一四年のドイツの知的風土は一八八〇年と著しく異なる様相を呈するものとなっていた。各種の潜在的な力が、この間ドイツ国民の価値観の構造を抜本的に変えたのである。その結果軍の人気は、プロフェッショナリズムに対する追い風というより、むしろプロフェッショナリズムに対する脅威へと変貌を遂げていた。立憲的、保守的イデオロギーが、ナショナリズム的、侵略的イデオロギーに道を譲り、ドイツ人の意識の中で実利主義、戦闘的気質、暴力と戦争の賛美、むきだしのへの崇拝が、より合理的で、理想主義的で、人道的な考え方に取って代わったのである。その結果、モムゼン、ドロイゼン 、ジーベル、トライチュケ、ニーチェが、ゲーテ、シラー、カント、クラウゼヴッツに取って代わることになった。戦争と力がそれ自身目的となり、権力者はもはや国家の召使いではなく、むしろ国家の化身であると見られるようになった。国家は力であり、しかも力だけとなったのである―戦争は、トライチュケによると「卓越した政治学」であり、進歩とナショナリズムの原動力であった。また「ドイツは」、パウルゼンによれば、「これまで詩人と思想家の国と呼ばれてきたが、今日では歴史上初めて出現した尊大な戦闘員の国と呼ばれるであろう」。
 戦闘的イデオロギーが大学で生み出され、ドイツ国民に受け入れられ、その影響は社会の隅々にまで浸透していった。しかしながら、将校たちが依然として軍の倫理を真剣に厳守していたことによって、第一次世界大戦に至るまで、将校団が受けたその戦闘的イデオロギーの影響は、比較的限定的なレベルにとどまっていた。それでもなお、この新しい思想はミリタリー・プロフェッションの周縁部で自らを強く印象付けようとしていた。例えば海軍は時代の産物であり、このようなナショナリズムと拡張の哲学の影響を受け易く、その結果海軍士官たちは、国民の好戦的な感情の要求を満たしていたフォン・デル・ゴルツ元帥やベルンハルディのような流行作家の方に顔を向けていた。士官たちは、彼らと彼らの考えを拒絶していた参謀本部に対して見出せなかった共感を、ベルンハルディに見出していたのである。これに対し陸軍の将校団の大半は、軍の倫理に忠誠を誓い、力の倫理を拒否していた。このドイツの知性と道徳の質の低下に直面する中で、彼らは古くからの考えを信奉し続け、ロジンスキーによれば「変容する風景の中で一塊の一枚岩として存在し続けていた」。陸軍の将校団は多くの点で、保守的な道徳の放棄に抵抗する、最後の社会的機関としての役を担っていたのである。それでもなおこの人気のある新イデオロギーは、将校団の存在の真髄をなす、権力とプロフェッショナリズムの間の均衡を蝕んでいこうとしていた


 一八八八年のモルトケの退役、それに続く一八九〇年のビスマルクの引退、引き続いて帝国主義的な対外政策「世界政策(Weltpolitik)」を掲げるウィルヘルム二世の登場に伴って、重工業化を推進したドイツ帝国は、軍拡と植民地獲得競争への本格参入を進め、第一次大戦に突入する。最後にナチスの支配が第二次大戦におけるドイツに完全なる崩壊をもたらした。この「凄まじい」ドイツの歴史については別途項を改めて紹介したい。