ハンチントンは、原著『軍人と国家』の冒頭「第一章 プロフェッションとしての将校職」において、現代の将校職はプロフェッションであることを明確に提示した(「1章 将校はプロフェッションである」参照)。そのプロフェッションとしての将校職が、西洋社会で出現した歴史的過程をハンチントンは引き続き、「第二章 西洋社会におけるミリタリー・プロフェッションの出現」において詳細に調査、分析し、その結果として、ドイツ(プロイセン)が「十八世紀との急激な決別をもたらすことになった」ミリタリー・プロフェッションの真の創始者であることを明らかにしている。
 
次の構成を設定し、そのミリタリー・プロフェッションの創成にかかわる歴史的展望を追ってみよう。

3-1-ext. ヨーロッパ社会におけるミリタリー・プロフェッションの出現
3—1—1.プロイセンにおけるミリタリー・プロフェッションの創設
3—1—2.帝政ドイツにおけるミリタリー・プロフェッションの変遷(一八七一年~一九一四年)

ここで、3-1-ext. は原著の第二章一~四節、3—1—1項は第二章五~八節に対応しており、3—1—2項は第五章二節に対応している。

 3-1-ext.および3—1—1.では、「道を切り拓いたプロイセン、フランス、それにイングランドの三主要国」を対象にして、プロフェッショナルな専門知識・技能、責任、そして団体的特質の形成が、軍という職業にかかわる次の重要五項目の発展の観点から評価される。

(1)将校団へ加入するための要件
(2)将校団内の昇進の方法
(3)軍の教育制度の特徴
(4)軍の幕僚制度の特質
(5)将校団の基本的な精神(エスプリ)と能力

ハンチントンは、「これらの制度上の諸要素の変化に伴い、次世代の新しい軍人と新しい制度の存立に対して知的な合理的根拠を与える、プロフェッショナルな倫理の発展がもたらされた」としている。



3-1-ext. ヨーロッパ社会におけるミリタリー・プロフェッションの出現
 ヨーロッパにおいて、将校団が自律的な社会的団体として発現した初期の段階を以下の項目に従って追ってみよう。
 一.新しい社会形態
 二.傭兵の将校職と貴族の将校職―十八世紀以前の将校職
 三.十八世紀の貴族的な制度
 四.前プロフェッショナル的理想―軍事技能と生れながらの天才

 ハンチントンはまず、新しい社会形態として出現した「ミリタリー・プロフェッション」が、十九世紀に創造された最も重要な制度上の創造物であることを力強く表明して行く。

一.新しい社会形態
 戦闘の技術(art of fighting)は人類が古い時代に獲得した一つの成果物である。対してミリタリー・プロフェッションは現代社会の近年の創造物である。歴史的に見ると、プロフェッショナリズムはこれまで西洋文化の一つの際立った特徴を示す成果として存在してきた。ちなみにかの偉大な市民のプロフェッション、聖職者、医者、弁護士は、中世後期に始まり、十八世紀の初頭には既に高度に発達した形で存在していた。 

 これに対し、将校職というプロフェッションは本質的に十九世紀の産物であった。しかも実際それは、十九世紀に創造された最も重要な制度上の創造物の一つであった。まさにナポレオン戦争において初めて将校たちは、素人から自らを区別する専門化した技術を身に付け始め、その技術に固有の基準、価値観、そして組織を発達させ始めたのである。プロフェッショナルな将校は、一社会的業種として、産業界における企業家と同じく、現代社会において極めて特徴的な存在となっている。

 しかしながら将校団がプロフェッショナルな自律的団体として出現した正確な時期は不明である。その出現は緩やかでおぼつかない歩みのうちに始まったが、明らかに二つの事実が認められる。西暦一八〇〇年以前には、プロフェッショナルな将校団などという概念は存在していなかったということ、そして西暦一九〇〇年には、このような団体は事実上主要なすべての国家の中に存在していたということである。

 プロフェッショナルな将校団の出現によって、ヨーロッパと北アメリカで、シビル・ミリタリー・リレーションズの現代的な問題が新たに提起されることになった。西暦一八〇〇年以前にも、シビリアン・コントロール、軍国主義、それに軍の精神(military mind)といった現代的な問題が既に存在していた、と指摘することは確かに可能である。しかし十九世紀初頭に起こった欧米社会の根本的な質的変化を考慮に入れると、現代的な問題を照らす光を求めて、この時代以前に考証の範囲を広げることはまずは無駄な試みである。

二.傭兵の将校職と貴族の将校職―十八世紀以前の将校職
 将校によって指揮される地上軍(アーミー)艦隊(ネイビー)は西暦一八〇〇年以前に既に存在していた。これらの将校がプロフェッショナルでないとするならば、彼らは一体何であったのだろうか? 一般的に彼らは傭兵か貴族であった。いずれも将校職をプロフェッションとは見ていなかった。傭兵にとってそれはビジネスであり、アマチュア貴族にとってそれは余技(ホビー)であった。エキスパートとしての軍人が追求するプロフェッショナルな目標の代わりに、前者は利益を、後者は名誉と冒険を追い求めていたのである

 傭兵の将校は封建制度の崩壊から十七世紀の後半にかけて支配的な形態であったが、その原点は、フランス王国とイングランド王国の間で戦われた百年戦争(一三三七年~一四五三年)の間に隆盛を迎えていた、傭兵軍団の中にあった。傭兵制度の下では、将校は本質的に事業主であり、人足を掻き集め一隊を立ち上げ、その軍務を売り物にしていた。傭兵の将校の職業的な能力は優劣雑多混在していたが、成功・不成功の評価は、プロフェッショナルな基準によるのではなく、金銭上の基準によって行われていた。一単位の地上軍は、それぞれ異なる指揮官の所有物である個々の部隊から構成されており、その個々の傭兵将校は個人主義者であり、ある程度互いに競争し合っていた。彼らは共通の基準も団結心も持ち合わせておらず、規律も責任感も欠いていた戦いは略奪を目的とするビジネスであり、略奪ビジネス向けの倫理が横行していた。傭兵制度の終焉は、三十年戦争(西暦一六一八年~一六四八年)およびグスタフ・アドルファス(スウェーデン王国最盛期の国王)やオリバー・クロムウェル(十七世紀中庸のイギリスの清教徒革命の指導者)の統制の取れた軍団の成功と共に訪れたが、この制度の遺物はプロフェッショナリズムの揺籃期まで存続していた。


ここで、英仏間で戦われた第一次百年戦争の開始時期は、我が国では鎌倉幕府が滅亡し、南北朝の動乱とともに室町時代の幕開けを迎える時期に当たる。この時代の我が国の戦いは、有力武士の統制の下、地方武士を組織化した規律正しい武士集団同士の合戦であった。室町時代に入り幕府の権力の弱体化が表面化するのに伴い地方の守護大名が力を付け、一四六七年の応仁の乱を契機に戦国時代に入る。

世界史を動かした日本のサムライ

 ヨーロッパで傭兵将校の時代がようやく晩期を迎えようとしていた時期、応仁の乱を契機に戦国時代を迎えた我が国では、戦国の世の過酷な戦乱を戦い抜くなかで、諸大名は厳しく組織化された規律正しい武士集団を創り上げ、その中から織田信長、豊臣秀吉、最終的に一六一五年の大阪夏の陣を制した徳川家康が日本統一の覇者となった。

 この厳しく組織化された規律正しいサムライ集団は、奇しくも、傭兵将校率いるオランダ軍に傭兵として雇用され、東南アジア諸国における植民地戦争において目覚ましい戦果を挙げ、地球規模で世界の歴史を動かしていたのである。以下簡単に紹介しておこう。(NHKスペシャル 戦国~激動の世界と日本~(2)「ジャパン・シルバーを獲得せよ 徳川家康×オランダ」2020年7月5日 NHK総合テレビ

 秀吉と家康が覇を競っていた時期、ヨーロッパでは当時の世界の覇者スペインに対して、新興国オランダが激しく挑戦を試みていた。

 一六世紀半ばにアメリカ大陸で発見された大規模銀山をもとに、国際通貨としての銀貨を発行しグローバル経済を支配していたスペイン、対して、植民地経営まで広く視野に入れた国策会社オランダ東インド会社を設立し世界に乗り出そうと計る新興国オランダ、ともにアジアへの進出、植民地獲得を目指していた。その大きな狙いの一つは、当時発見された佐渡の金銀山であった。最盛期のその銀産出量は年間100トンに達し、世界の産出量の1/3を占めていたのである。

 こうしたなか、関ケ原の戦いの直前、日本に漂着したオランダ貿易船リーフデ号が日本の歴史を大きく動かして行くことになる。家康は、搭載されていた最新の銃・弾薬に目聡く着眼し、関ケ原の合戦に投入し、戦いの帰趨を制する一因とした。
 引き続き大阪冬の陣において、射程距離500mを達成する大砲の不在によって敗れた家康は、オランダ東インド会社が巨額の開発費を投入して開発した最新式のブロンズ製カノン砲の導入を強力に推し進め、夏の陣において難攻不落を誇った大阪城を攻め落とし、戦国時代に終止符をもたらす偉業を成し遂げた。
 
 家康の天下統一の実現はしかし、多くの武士から職を奪い、結果的に浪人が街にあふれるようになった。一方で、東南アジアの植民地争奪戦に明け暮れるオランダは、恒常的な兵員の欠乏に窮し、現地から緊急の救援要請が絶え間なく平戸のオランダ商館に届いていた。

 商館長スペックスは家康との直接交渉に乗り出し、オランダからの武器輸入で莫大な利益を得ていた家康の承諾を得て、一挙に数百人規模のサムライを傭兵として東南アジアへ送り込むことに成功した。オランダ国立公文書館には、傭兵となったサムライ達の氏名と給料が詳細な記録として残されている。
 オランダは、難攻していたスペインの最重要拠点モルッカ諸島攻略に、集中的に日本人傭兵を送り込んだ。オランダ人傭兵将校の指揮のもと、軍艦による夜陰砲撃中に、密かに迂回上陸し、先陣を切って敵陣に攻め入ったのは最強のサムライたちであった。

 結果的にオランダは、スペインを駆逐することによって交易ネットワークを大きく変え、世界の海を渡るヨーロッパ船の3/4を占めることになった。戦国日本と結びつくことでオランダは世界の覇権を手にしたのである。世界と日本が初めて出会った激動の時代、戦国日本が生み出したサムライや銀が世界の歴史を大きく動かしていたのである。

 大規模な国家間の紛争が続く十七世紀半ばのヨーロッパにおいて、傭兵将校の時代が終焉を迎えると共に、新たに貴族の将校の時代を迎えることになる。

 貴族のアマチュア将校による傭兵将校の置き換えは基本的に、国家の君主たちが権力強化を図る意図の下に、自らの領地を守りその治世を維持するために、恒久的な軍の保有の必要性に迫られた結果もたらされた方策であった。それ以前は、地上軍や艦隊は、王やその他王族によって必要に応じ立ち上げられていたが、君主たちが新たに必要としていたのは、持続性のある軍隊であり、その結果誕生したのが常設陸軍と常設海軍であった。これらの軍の下士官兵は、通常八年ないし十二年の任期を前提に募集された、長期志願兵から構成されていたが、最低の社会的階級から賄賂と強権によって徴用されていた。一方将校に関しては、君主たちは当時、依然として我が意のままに操り動かしていた封建貴族に眼を向けていた。貴族たちは、王の軍務に就くよう強要されるか(プロイセンの場合)、または買収されるか(フランスの場合)の何れかであったが、新兵募集の機能はもはや将校から取り上げられ、王の特別代理人に任せられることになった。

 その結果、軍そのものは代理人の所有物ではなく、王の所有物となり、それに伴い将校自身は、契約に基づき働く従来の事業主から王の永続的な家来となった。要するに軍の機能は国有化され、国家の統制が個人の統制に取って代わったのである。その結果、フランス革命の勃発を告げた一七八九年時点におけるヨーロッパ諸国の陸軍においては、貴族が砲兵と工兵以外は将校の身分を事実上独占していた。この貴族の将校職は結果的に、前プロフェッショナルな将校職の最後の形態となり、十八世紀の西洋社会において、将校職として他を圧する優勢な形態となった。

十八世紀に入り貴族の将校職の時代を迎えるとともに、ヨーロッパ諸国は前世紀に引き続き度重なる大規模な戦乱の渦に飲み込まれた。その戦績の跡を簡単に追って見よう。

十八世紀の西洋社会における大規模な戦争

 スペイン継承戦争 一七〇一年から一七一四年に掛け、スペインの王位継承を巡ってイギリスとフランスを対抗の主軸として、ヨーロッパ諸国間で戦われた戦争である。イギリスはオランダ、オーストリアと同盟し、これにプロイセン、ポルトガルが参加、フランス側にはバイエルンが付き、戦闘は広くヨーロッパ各地からカナダのフランス植民地にまで展開された。
 数次にわたる過酷な戦闘のあと最終的にイギリスが勝利し、スペインからジブラルタルやアフリカ奴隷の売り込み権等を獲得し、世界の海洋植民国家としての基礎を築いた。この戦争における全死者数は百二十五万人と言われ、ヨーロッパ、アメリカ大陸にまたがる極めて大規模な戦いが展開された。

 七年戦争 引き続き紀央の一七五四年から一七六三年まで、はじめての世界大戦と言われる七年戦争が、プロイセンとオーストリアを対立の軸とし、これにイギリスとフランスの間の積年の戦い英仏植民地戦争(第二次英仏百年戦争)が重なり、当時のヨーロッパ列強すべてを巻き込む世界的規模の戦争へと発展した。
 プロイセン側にはイギリス、オーストリア側にはフランス、ロシア、スペイン、スウェーデンが参戦し、百三十六万人と言われる戦死者を出して、最終的にプロイセンとイギリスの勝利が確定し、ヨーロッパにおけるプロイセンの地位の向上、イギリスの植民地帝国としての繁栄の基礎が確立された。

 フランス革命戦争 さらに、一七九二年から一八〇二年に掛けてフランス革命戦争が、革命後のフランスと反革命を標榜する対仏大同盟との間で繰り広げられた。戦いは、フランス革命に対する外国の干渉戦争から、途中フランスによる侵略戦争へと変貌したが、同盟側は、イギリスを中心にオーストリア、オランダ、プロイセン、スペイン、ロシアが参戦し、二回にわたる大同盟を結成し、フランス、オランダ、ベルギー、ドイツ、北イタリア、エジプト等を主戦場として戦いを展開した。
 最後はエジプト遠征帰還後のナポレオン率いるフランス軍が大同盟軍に勝利し、オランダ、南ネーデルラント、ラインラント、スイス、イタリア等の地域を支配下に置いた。この戦争による全戦死者数は百四十万人と推定されているが、引き続きヨーロッパは、さらに過酷なナポレオン戦争へと突入していくことになる。

 なお十八世紀は、我が国では江戸時代の中期から後期にあたり、第五代将軍徳川綱吉の治世に於ける赤穂浪士の仇討ち事件、幕府財政の立て直しを図った八代将軍徳川吉宗による享保の改革、同じく幕政改革を目論んだ松平定信の寛政の改革等が代表的な歴史的事象として挙げられる。

 前プロフェッショナルな将校職の最後の形態となった十八世紀の貴族的な制度について、引き続きハンチントンの考証結果を追ってみよう。貴族の将校は、前述の軍という職業にかかわる重要五項目に関して如何なる特性を持つのか、また如何なる軍事思想に支えられていたのか、要約して以下に示しておこう。

三.十八世紀の貴族的な制度
(1)将校団への加入―家柄と富が決め手
 十八世紀のヨーロッパでは、将校職の貴族化が顕著に進んだ。十七世紀にはプロイセンやフランスでも庶民が将校職に就くことができたが、十八世紀になると砲兵や工兵といった技術部門を除き、将校団はほぼ貴族階級に限定された。予備軍事教育を行う学校も貴族のみ入学を許可し、その結果、中産階級や庶民は体系的に排除された。

 フランスでは革命直前の一七八九年には将校団の三分の二を貴族が占め、庶民はわずか二割にまで減少していた。また貧しい貴族も軍務によって救済され、将校数が兵員数に対して過剰となる状況が恒常化していた。
 プロイセンではフレデリック一世と大王の政策によって貴族の兵役義務化と中産階級の追放が進み、一八〇六年には非貴族の将校はほぼ技術部門に限られ、全体の一割程度にとどまった。
 これに対し、イングランド陸軍では家柄よりも財産が重視され、官職の購入が加入と昇進の常態となっていたため、平時には地方上流階級の子弟が将校職を独占した。一方、海軍では家柄や財産による制限は比較的弱く、艦長の使用人として働きながら昇進する道が一般的であった。

 このように、十八世紀ヨーロッパの陸軍では将校職が急速に貴族階級へと閉ざされていったのに対し、イギリスでは陸軍が財産によって制限される一方、海軍は相対的に開放的な構造を保っていた。

以上翻訳原文をChatGPTにより要約。

(2)昇進―購入、家柄、政治的影響力が左右
 一八〇〇年以前は将校団内の昇進は将校団への加入と同様、富、家柄、そして政治的影響力によって左右されていた。すべての国の軍において、一般的に最高位レベルの指揮官の任命は政治的影響力によって左右されていた。

 フランス革命時点のフランスでは、最高位レベルの軍の官職は従来通り富も家柄も共に恵まれた宮廷貴族が独占していたのに対し、下位の将校職は、能力優先のプロフェッショナルな昇進制度の導入もあって、貧しい地方貴族が富の規準を排して優勢となり、購入制度を排除し始めていた。この点においてフランスは他のヨーロッパ諸国に先駆けていた。
 プロイセンでも高位の貴族が高い官職を独占していた。体裁上は能力による昇進の制度が曲がりなりにも維持されていたが、実際は個人的な事情や君主の気まぐれが昇進を決定する主要な要因となっていた。またフレデリック大王の低賃金政策や、年金制度が一切制定されていなかったため、ここでもまた財産資格が導入されがちであった。
 イギリスでは君主、議会、または両方の影響力が最高指揮官の地位を獲得、維持するための必要不可欠な条件となっていた。また将校の多くはしばしば議会に議席を有しており、議員としての自らの身分を利用して、陸軍における自身の昇進を有利に導こうとしていた。海軍においてもまた高位の地位への任用に関する限り事情は同じであった。

(3)教育ー貴族と技術将校
 将校職のための教育は、当時の原始的な軍事科学とも、貴族的な信念―指揮のための唯一の資格は生まれ付きの勇気と名誉(オナー)であるという信念―とも馴染まないものであった。前者は軍事教育を非実用的なものにし、後者は不必要にしていたのである。従って、当時実在していた軍学校は極端に初歩的なレベルにとどまっていたが、一般に二種のタイプに分けることができる。

 貴族対象の軍学校 貴族か良家の生まれの将校を対象にした予備訓練のための学校である。この範疇に属するものに、一七五一年に創設されたフランスの陸軍士官学校(Ecole Militaire)、一七六五年に設立されたプロイセンの騎士学校(Ritter Akademie)、それに一七二九年に設立されたイングランドの海軍兵学校(Naval Academy)がある。これらの学校の生徒の質と教育レベルは一様に貧弱なものであった。イングランド陸軍に至っては予備訓練のための標準的な教育機関さえもまったく用意していなかった。
 中産階級出の技術将校対象の軍学校 一八〇〇年以前の第二のタイプの軍学校は、砲兵と工兵向けに技術的に有能な将校を養成することを意図するものであった。入校する生徒は主として中産階級出の市民であった。

(4)幕僚ー発育不全
 幕僚は本来専門知識を結集し、それを現実に即して暴力の管理に適用するプロフェッショナルな機関である。幕僚の近代的先駆者は、グスタフ・アドルファスとクロムウェルの軍の中に登場したが、その登場直後の十七世紀半ばから十八世紀の終わりに至るまで、幕僚組織には何ら進歩が見られなかった。それは軍事科学の分野でこの期間変化が乏しかったことと特徴的に符合している。

 幕僚組織の起源は常設陸軍にとって必要不可欠な補給活動の中にあり、この初期の幕僚の中での主要人物は主計総監であった。当時専門的な計画立案と統制を必要とする唯一の業務は後方支援活動に限られていたのである。従ってこの業務を担当する幕僚は軍事作戦とは一切無縁の立場にあり、それに対し総司令官の領域に属するとされる戦略と戦術は、若干名の副官が補佐として付いているに過ぎなかった。要するに幕僚の仕事は、戦争そのものが戦争支援活動と同程度に複雑になるまでは必要とされなかったのである。

(5)能力と精神
 十八世紀の将校団は専門知識・技能、規律、責任という軍の価値観を、贅沢、勇気、個人主義という貴族の価値観より下位に位置付けていた。要するに貴族は将校職におけるアマチュアに過ぎなかったのである。余暇、狩猟、そして豊かな生活と共に、戦うことは貴族の理想の一部をなすものであり、スポーツと冒険に代わって種々の可能性を与えてくれるという意味で、貴重な気晴らしであった。

 フランス陸軍では、将校職としての実務面で熟達したレベルに達していた将校は資産家出の者に限られていた。しかしそれは部隊の少数派に過ぎず、最低位の階級に押しとどめられており、それに対し一般のフランス軍将校の能力は指揮官に失望のため息を吐かせるようなレベルにとどまっていた。将校は宮廷との繫がりがあれば、何時でも望んだときに軍務を放棄することが可能であった。
 プロイセン軍においても同じく事情は芳しいものではなかった。十八世紀を通して、プロイセン将校団が高齢の将校と貴族の最も無能な子息であふれてくるにつれ、老齢化、腐敗、そして無能化が顕著な傾向となって表面化していった。このような将校団の質の低下は、イエナの戦いにおける大敗時とプロイセン諸要塞のナポレオンへの降伏時に最悪状態に達していた。

まとめ
 十八世紀の将校団は、軍の任務を効果的に遂行する能力を高めることよりは、貴族の要求を満たすことを目的としていた。富、家柄、個人的ないし政治的影響力が将校の任命と昇進を決定しており、子供や無能な人間がしばしば軍の高位階級を占めていた。またプロフェッショナルな知識体系が一切存在していなかったため、少数の工業技術学校を除いて軍事知識を授けるための機関は存在せず、その修得した知識を実地に適用するためのシステムも不在であった。将校たちは貴族のように振舞い思考していたのであって、将校のように振舞い思考していたのではなかった。要するにミリタリー・プロフェッションは全く存在していなかったのである。 

 
 以上見て来たように、十八世紀の度重なる過酷な戦いを主導した貴族の将校は、当時の原始的な軍事科学の時代にあって、限られた初歩的な軍事的知識、素養を基に、自らの生来の貴族的価値観を前面に掲げ戦いを主導した。しかし、戦乱に次ぐ戦乱の時代にあって、世紀の後半から、軍事学にかかわる著作が数多く出版され、軍事啓蒙運動として、十九世紀のプロフェッショナリズムの時代へと繋がる一定の基盤が構築されていくことになる。その十八世紀の軍事技術と指揮能力の理論とは如何なるものであったか、さらにハンチントンの考証を見てみよう。

四.前プロフェッショナル的理想―軍事技能と生れながらの天才
 十八世紀の軍事思想は、近代的な軍事科学の体系を築くには至らず、断片的で雑多な助言や古代の事例の蒐集にとどまり、統一的理論や体系性を欠いていた。当時の著述家の多くは戦争に確固たる原理や法則が存在することを否定し、戦略・戦術などを論理的に区別する視点も欠如していたため、軍事著作はカタログのような寄せ集めに過ぎなかった。その中で例外的にロイドは、軍の本質を「あらゆる軍事行動を遂行する道具」であると定義し、軍を一つの機械として分析することによって、戦争が特定の確固たる原理に基づく科学であると主張し、年代学的手法を否定した点で際立っていた。

 一方、当時広く受け入れられていた指揮理論は「生まれながらの天才」に基づくもので、軍事的才能は学習や制度によって育成できず、特定の階層に固有の資質とされた。啓蒙主義の著述家でさえもこの考えを共有し、戦争指導の高次の能力は努力や経験では得られず天賦の才に依存するとみなしていた。こうして十八世紀の軍事思想は、制度的・職業的基盤を欠いた「前プロフェッショナル的」段階にとどまっていたのである。

翻訳原文をChatGPTにより要約。

 
 生まれながらの天才に基礎を置くこの時代の指揮能力の理論は、進歩的な啓蒙主義の軍事思想家たちにも支持されていたが、このあと十八世紀の後半に登場するシャルンホルスト、クラウゼヴィッツたちはこの啓蒙運動を引き継ぎ、その中から新たにプロフェッショナルな将校職の概念を確立して行くことになる。

軍事学に対する日本の取り組みについて

 なおここで、軍事学の分野における日本の取り組みの姿勢について、ハンチントンが示している厳しい評価を紹介しておこう。第五章の日本のプロフェッショナリズムに関する考証の中でハンチントンは次のように記している。

 知性の軽視と精神の賛美の所為で、日本では軍事に関するプロフェッショナルな著作物の出版は極めて数が限られていた。一九〇五年から一九四五年にかけ日本は一流の海軍国であったにもかかわらず、その間日本の著述家は海軍力の本質とその用法に関して重要な理論を一切発展させたことがなかった。第二次世界大戦以前にこの主題に関して出版されたほんのわずかな著作物も、感覚的なものであるかあるいは非常に初歩的なものであった。学術的分析は存在していなかったのである。
 陸上作戦に関しても事情は似たようなものであった。要するに日本は「戦争の科学に関して、これまで一流の業績を挙げたことがなかった」のである。

 我が国は、周知のように、秋山真之や児玉源太郎など国際基準に照らしても優れた戦略・戦術家を輩出している。だが、軍事学の分野での国際的な貢献は現在に至るまで伝統的に低いレベルに止まっている。ハンチントンが指摘する如く、封建時代からの伝統を引き継ぐ「知性の軽視と精神の賛美」が背景にあると指摘されても致し方ない。ともすれば勇将・猛将を称揚し、智将を軽んずる風潮が見受けられるのである。

 このあと順次論じて行くが、欧米において、軍のプロフェッショナル化を推し進めた代表的な軍人に共通する特徴を見て行くと、それは若年時より科学的・合理的な思考習慣を身に付け、これを基に知性と道徳性に富んだ人格を築き上げた智将であることが挙げられる。プロイセン陸軍のプロフェショナル化運動を立ち上げたシャルンホルスト、その改革運動を支えたクラウゼヴィッツ、それを完成させたモルトケ、いずれもこの範疇に属する智将である。
 またプロイセンのプロフェッショナリズムを学び、アメリカのプロフェッショナルな改革運動に結び付けたシャーマン将軍、その改革運動の最前線に立って活動を先導したエモリー・アプトン将軍も共通した特徴を示している。プロフェッショナル化の中心的役割を果たしたこれらの軍人は、もちろん戦場においても勇将の名を馳せた人達であるが、その共通した特徴は、政治との関わりを厳しく拒絶し、ひとえにプロフェッショナル化の道を突き進んだ理知的な軍人たちである。

 これらの先導的な軍人に限らず、士官学校の生徒から中堅の将校に至る一般の軍人が示す学術分野への参加・貢献も洋の東西で極めて顕著な対照を示している。後述の「3-2-2.南北戦争前におけるアメリカ軍の伝統のルーツ」および「3-2-3.アメリカのミリタリー・プロフェッションの創成で述べたい。

 前項で述べた十八世紀の前プロフェッショナルな貴族的制度の時代から、ナポレオン戦争を一つの契機として、十九世紀のプロフェッショナリズムの時代を迎えることになる。ハンチントンは、その移行をもたらした直接的要因として、十八世紀末のプロイセンにおける軍事啓蒙運動と、一八〇六年のイエナの戦いにおけるナポレオン軍に対するプロイセン軍の大敗北を挙げている。この敗北を契機に、上記の啓蒙運動を底流として、プロイセンは軍の大改革に着手し、近代ドイツ軍の創設に向け歴史的な一歩を踏み出したのである。

 このナポレオン戦争は、一八〇三年から一八一五年にかけ、ナポレオンⅠ世率いるフランス帝国およびその同盟諸国、デンマーク、スペイン、オランダ、スイス等から成る大陸軍と、イギリス、オーストリア、ロシア、プロイセンなどのヨーロッパ列強諸国より成る対仏大同盟(第三次~第七次)との間に戦われた極めて大規模な戦争である。フランス軍を率いたナポレオンは一時期ヨーロッパの大半を征服したが、スペイン独立戦争とロシア遠征での敗退、ワーテルローの戦いにおける決定的敗北後、ナポレオンの再度の退位を受け、第二次パリ条約によって戦争は終結した。

 ナポレオン戦争における全戦死者数は三百五十万人と称され、この世界規模の戦争を機に、ヨーロッパ諸国は封建領主の領土を単位とした領邦から、ナショナリズム(国民主義)の高まりを背景として国民国家へと変貌していくことになる。そこには、民主主義の台頭と旧貴族制との葛藤産業革命における技術開発と産業主義の胎動、さらにはヨーロッパ各国の拮抗するナショナリズムの高まり等、政治、社会、軍事の全領域にわたる重要な変革要因が、十九世紀の新ヨーロッパを形成すべく歴史の底流を形成し始めていた。
 ハンチントンは、プロフェッショナリズムへ向けた改革を始動した歴史的なプロイセン政府の行政命令を明記して、プロイセンの改革の課程を詳細に検証していく。