序章で示したようにハンチントンは、将校職がプロフェッションであることの論拠を、クラウゼビッツの戦争の本質に関する二元性の原理に求めている。そのうえで前節のプロフェッションの定義を基に、将校職がプロフェッションであること次のように明確に宣言して行く。

 職業としての将校職(officership)はプロフェッショナリズムの主要基準を満たしている。実際問題として如何なる職業も、医者や弁護士でさえも、理想的プロフェッション型の特性すべてを具備している訳ではない。たぶん将校職はこれらのいずれよりもいくぶん理想から乖離しているであろう。それでもプロフェッションとしての基本特性を備えていることは否定できない事実である

 現実において将校職は、プロフェッショナルの理想に最も近付くとき、最も強力かつ有効なプロフェッショナルとなる―反対に理想から乖離しているとき、最も脆弱かつ不適格なものとなる。

国家の軍事的安全保障は、軍人が如何にプロフェッション固有の特性を我が物と成し得るかに懸かっているのである。

 将校職の専門知識・技能
 ハンチントンは、将校団(officer corps)に所属する軍人を、将校(military officer)と、直接戦闘行為に携わらない多様な専門家より成り非軍事的グループに分けて議論を進めている。

 自らの知識分野に専心するこれらの技術専門家を除いても、陸海空軍の将校自体も、陸海空の広範な部隊で遂行すべき任務と必要とされる技能は、非常に多種多様に分化している。例えば巡洋艦の艦長と歩兵師団の指揮官は至って別種の課題に直面し、極めて異質な能力を必要とする。

 それでも軍事的能力として、全ての将校ないしはほぼ全ての将校に共通して必要とされる明白なる領域が存在する。しかもそれは、全ての非軍事的グループないしはほぼ全ての非軍事的グループから、将校を区別するものである。 その中枢的技能は、おそらく、ハロルド・ラスウェルの名言「暴力の管理(management of violence)」に最もよく要約されている

将校の中枢的機能を、ラスウェルの成句「暴力の管理」を用いて鮮明に表現するハンチントンの定義は、極めて平明にして鮮烈である。明治維新後、半世紀をかけて築き上げた我が国の旧陸海軍には、終始一切存在しなかった概念・価値観である。

ラスウェル

 ラスウェルはシカゴ大学、イェール大学の著名な法学・政治学教授であり、第二次大戦後の冷戦時代に、シビル・ミリタリー・リレーションズに関する有力な理論「軍事国家(garrison state)」を提唱した。戦後持続する軍事的危機の末に、必然的に軍事国家の出現が待ち受けており、自由主義国アメリカが求め得るものは世界連邦である、という言わば苦渋に満ちた主張を展開している。

 次いでハンチントンは将校の任務と技能をより具体的に示していく、

 本来軍の任務は武装した戦闘を勝利させることである。将校の任務は
  (一)軍を編成、武装し、訓練すること
  (二)軍の活動計画を立てること
  (三)戦闘および戦闘外の両作戦を指揮すること
である。暴力の行使(application of violence)をその主要な任務とする人間の組織体を指揮し、作戦を運用し、統制することが、将校の固有の技能である。その技能は陸海空の将校の行動に共通したものであり、将校を将校として、現代の軍に存在する他の専門家から区別する。(中略)・・・アナポリス出身者に対する伝統的な訓戒の中に顕示されている「艦隊を率いて戦え(fight the fleet)」という箴言は、将校職の真髄を表すものである。

「暴力の管理」と「暴力の行使」の間には厳然たる境界線が存在しており、その「暴力の管理」を司る将校が「艦隊を率いて戦う」のである。

 ハンチントンは引き続き、暴力が用いられる条件、暴力が適用される形式が種々存在していることを、歩兵分隊の活動だけしか指揮できない将校から、大規模な海空陸軍の部隊を含む共同作戦の複雑な活動を指揮することができる将校の例を挙げ、現代のプロフェッショナルな将校が身に付けなければならない専門知識・技能が、極めて複雑な知的な技能であることを示していく、

 暴力の管理が極端に複雑な任務となっている文明以前は、確かに専門化した訓練を受けずとも将校職を実行することが可能であったが、今や自らの勤務時間を完全にこの職務に捧げる人間以外は、適切なレベルのプロフェッショナルな能力を身に付けることは望み得ない。
 将校の技能はクラフトではなく(クラフトは主に機械的な技能である)、また芸術でもない(芸術は独創的で譲渡不能な才能を必要とする)。実際はそれは総合的な学問と訓練を必要とする並外れて複雑な知的な技能である。

 忘れてならないのは、将校の特別な技能は暴力の管理であるということであり、暴力の行使そのものではないということである。例えばライフル銃を発射することは基本的に機械的なクラフトであるが、ライフル中隊の作戦を指揮することは完全に異なる部類の能力を必要とする。それは一部は書物から、そして一部は訓練と経験から修得しなければならない。

旧日本軍の将校の特性

 ここで、この「暴力の管理」の問題に関連して旧日本軍のことを触れておきたい。ハンチントンは、第五章「ドイツと日本―シビル・ミリタリー・リレーションズの実際」の中で、旧日本軍の将校像について詳しく論じている。その中で、日本の将校に「暴力の管理」の概念が完全に欠如していることを次のように厳しく指摘している。

 本来プロフェッショナルな軍の倫理は将校の効能と戦士の効能との間にはっきりした区別を付ける。しかし日本人にとって理想的な将校は戦士であった―他の人間による暴力の行使を指揮する管理者であるよりは、むしろ自分自身が暴力の行使に携わる戦闘員であった。これは封建時代の理念であって、プロフェッショナルな理念ではない。・・・・将校と戦士の違いはわずかかもしれないが、はっきりと存在する―戦士の必須の特質は勇敢さである。将校のそれは統制(discipline)である


ハンチントンは、その戦士としての将校像の形成に影響を与えた鍵となる要因を、一八六八年に至るまで七百年にわたって持続した封建制度に求め、その直接的要因を、明治維新とともに急速に形作られた日本の国家的イデオロギー、「国家神道」と「武士道」にあると指摘している。

 さらに、日本が西洋の制度に倣って自らの軍事制度を築こうと意識的に努力し、フランス、ドイツの軍事顧問団の招聘、海軍兵学校はじめとする各種軍学校の設立、さらにはヨーロッパ先進国と同等の将校採用・昇進制度の導入を図ったことを挙げ、新たに形成された日本のプロフェッショナリズムに対し次のように厳しい評価を下している。

 しかるに、これらの制度上の諸方策とともに西洋において築き上げられてきたプロフェッショナルな視座は、取り込むことができなかった。言い換えると日本はミリタリー・プロフェッショナリズムの外観、つまり外部を覆う殻は手に入れたが、その本質を我がものとすることができなかったのである。その結果日本の軍の精神は古くから受け入れられてきたイデオロギーによって支配されたままの状態にとどまることになった。

極めて厳しい評価であるが、正鵠を得た評価である。


 ハンチントンは引き続き、プロフェッショナルな将校が身に付けなければならない極度に複雑な軍事技能、各種の幅広い素養の修得について言及して行く、

 現代の将校はミリタリー・プロフェッションの知的な職務内容を修得するために、自身のプロフェッショナル生活のおよそ三分の一を捧げなければならない。これはたぶん他の如何なるプロフェッションにおけるよりも、実践時間に対する教育時間の比率が高いことを示している。

 将校の特殊な技能は普遍性のあるものであり、その本質は時間と場所が変っても影響を受けない。プロフェッショナルな軍人の能力はアメリカでもロシアでも、二十世紀でも十九世紀でも、同じレベルの高さにある。

 将校という職業はまた歴史を持っており、そのため暴力の管理は単に既存の技術を学ぶことによって習得できるような技能ではあり得ない。それは絶え間ない発展の過程の中にあり、将校はこの発展過程を理解し、その主要な性向と動向に通暁していなければならない。将校は軍隊を組織し指揮する技術の歴史的な発展を知悉していなければ、彼のプロフェッションの頂点に立つことはできないのである。その結果、戦争と軍事問題に関する歴史の重要性は、軍事に関する書物と軍の教育を通して一貫して高く位置付けられている

 軍事技能に熟達するためには、一般教養の幅広い背景が必要となる。歴史上の如何なる時期においても、暴力を組織し使用する方法は社会全体の文化形態と密接な関係を有していた。法律がそのフロンティアにおいて、歴史学、政治学、経済学、社会学、心理学と融合しているように、軍事技能もこれらの分野と融合している。さらに軍事知識は化学、物理学、生物学のような自然科学との間にもフロンティアを共有している。将校は自らのトレードを適切に理解するためには、これらの他分野との相互関係と、これらの知識の自らの目的への活用法について、何らかの知識を持ち合わせていなければならない。

 将校が自身のプロフェッショナルな分野で必要とされる能力と心構えを身に付けるには、ミリタリー・プロフェッションの外側にある幅広い学問の道を避けて通ることはできない。将校は弁護士や医者と同じく、絶えず人間を相手に活動するため、人間の生き方、動機、行動に対してより深い理解力を持つことが要請される。そのため一般教養的な教育が必要となるのである。一般教育が弁護士や医者のプロフェッションに就くための必須の条件になっているのと同じように、今やそれはほぼ例外なくプロフェッショナルな将校に必要な資質であると認識されている。

 
 将校職の責任
 暴力の管理という特殊な技能を身に付けている将校が、社会に対して負う極めて重い責任を、ハンチントンは他のプロフェッションと対比して、次のように示している。

 将校は固有の専門知識・技能を身に付けているため、特別な社会的責任を負うことになる。将校がもし無分別に自己の専門知識・技能を自らの利益のために用いるならば、社会の基本構造を破壊することになるであろう。・・・・すべてのプロフェッションが国家によってある程度規制されるのに対して、ミリタリー・プロフェッションは国家によって完全に規制される

 医者の技能は診断と治療である―その責任は患者の健康の確保である。一方将校の技能は暴力の管理である―その責任は自らのクライアントである社会の軍事的安全保障の確保である

 責任を果たすためには技能へ精通することが要求される―技能へ精通するには責任を受け入れることが要求される。このような責任と技能を合わせ持つため、将校は他の社会的プロフェッションとは一線を画したものとなる

 国家は国家の安全保障の実現に直接的な関心を払っている。それと同時にこれ以外の種々の社会的価値基準にも関心の目を向けている―しかし将校団だけは、他のすべての目的を排して軍事的安全保障に対してのみ、責任を負うのである

 このように重い責任を担う将校が、その責任を全うするために自らに課すインセンティブについて、

 将校は何かプロフェッショナルな動機を持って行動しているだろうか? 明らかに経済的インセンティブを第一にして行動することはあり得ない。西洋社会では、将校という職業は金銭的に十分に報いられていない。またこのプロフェッションにおいては、将校の行動は経済的な報酬や懲罰によって管理されることはない。
  将校の動機は自らのクラフトに対する技術的な愛であり、社会のためにそのクラフトを活用しようとする社会的義務の意識である。要するにこれらの情熱が組み合わさって、プロフェッショナルな動機を構成しているのである。一方社会の側は、将校に対して現役時でも退役後においても、継続的に十分な報酬を用意しなければ、この動機を保証することはできない

 経済的インセンティブが将校の行動基準でないとすれば、将校は如何なる行動指針を必要とするか、

 将校は知的技能を備えているが、それに精通するには厳しい研鑽を必要とする。しかし弁護士や医者と同じように本来将校は書斎の人ではない―彼は絶えず人間を相手に仕事をするからである。将校のプロフェッショナルな能力は人間同士の相互関係の場の中で、自らの専門知識を行使することで示される

 しかしこの行使は金銭的な規則体系で規定されている訳ではないので、将校には、同僚の将校、部下、上官、さらに彼が仕える国家に対する自らの責任を明確に書き記した指針が必要となる。軍の組織の中での彼の行動は規則、慣例、そして伝統の複雑な組合せによって律せられる

 軍の組織内では、将校の行動は、規則、慣例、そして伝統の複雑な組合せによって律せられるとしているが、さらに社会に対しては、

 これに対し社会に対する将校の行動は、次のような認識―自らの技能は政治的代理人としての国家を介して、社会に承認された目的以外には行使できないという認識―によって導かれる。医者がその主たる責任を患者に対して負い、弁護士が依頼人に対して負うのに対して、将校はその主たる責任を国家に対して負うのである。

 その国家に対する将校の責任は熟達した忠告者の責任でなければならない。弁護士や医者と同じように、将校も自らのクライアントの活動の一部分にしか関与できない。従って将校は、自らの専門能力分野を越えるような内容を含む決定を、クライアントに押し付けることはできない

 将校ができることは、クライアントに対して、国家の軍事的安全保障の分野においてクライアントが必要とすることを説明し、これに対処する方法に関して忠告し、そしてクライアントが一旦決定を下したあとは、その実現を図るためにクライアントを援助することに限られる

その結果、国家に対する将校の行動は如何なる基準によって導かれるか、

 国家に対する将校の行動は、ある程度は法律で定められている明確な規則や、医者や弁護士のプロフェッショナルな倫理規範と同じような行動基準によって導かれるが、将校の行動を律する基準の大部分は、ミリタリー・プロフェッションの慣例、伝統、および昔から受け継がれている精神スピリットの中に伝承されている

 問題は第一に、国軍としての現在の自衛隊は、自衛隊組織の中での幹部自衛官の行動基準が、実質的に旧帝国陸海軍の慣例、伝統、および精神スピリットを受け継いでいることである。そのことは、「矜持ある人々―幹部自衛官のあるべき像を求めて」に示してある。
 第二に従って、国家に対する将校の行動を律する基準が、新たな慣例、伝統、精神スピリットとして構築され、実質的に効力を発揮していないことである。

精神 — スピリット(spirit)とマインド(mind)

 ハンチントンは、日本語における「精神」という用語に当たる英単語として、mindspiritを用い、両者を明確に使い分けている。

オックスフォード現代英英辞典によれば、これら両者は
mind:物事を認識し、思考し、知覚する能力(ability to be aware of thengs, to think, and to feel)
spirit:勇気、決断、活力、または集団、チーム、社会に対する忠誠心( courage, determination or energy; or loyal feelings toward a group, team, or society)
とされている。

 旧日本軍で用いられていた「大和魂」は明らかにスピリットの範疇に入るが、「武士道」はスピリットとマインドの両要素を持ち合わせた複合的概念である。明治時代の新渡戸稲造による『武士道:Bushido: The Soul of Japan』から、平成年代における藤原正彦の『国家の品格』に説かれる武士道精神は、広く人間の生き方を扱っていて、きわめて難解かつ哲学的である。

 現在の自衛隊においては、平成年代において第一次イラク復興支援派遣部隊指揮官が「武士道精神を遺憾なく発揮して…」というコメントを残してして任地に赴いた例がある。その真意は不明であるが、ここには「スピリット」の範疇に入る要素が強く伺われる。

 いずれにせよ、現在の自衛隊には、昔から受け継がれるべき伝統的な精神スピリットが存在しないのである。現役の自衛官が「武士道」を正面から論じた論文は、筆者の知る限り1件のみである(林吉永「日本の職業軍人意識―1500年の軍事史を振り返って―」『戦史研究年報 第8号(2005年3月)』、p.127-151)。戦後三四半世紀を経て、自衛隊の新たな精神スピリットの構築を託されているのはもちろん、少壮の幹部自衛官であり、防衛大学校学生である

 
 将校団の団体的特性
 暴力の管理を自らの任務とする将校職は、その団体としての特性が国家に対して極めて重大な影響を与える。ハンチントンは国家体制におけるその位置付けを次のように示している。

 将校職は公的で官僚的なプロフェッションである。・・・・しかし組織的に見れば、将校団は単なる国家の一創造物以上の機関である。何故なら、安全保障にかかわる各種の機能的要件が必然的に複雑な各種の職務機関の創設を促し、その中に将校団が一つの自律的な社会的構成単位として鋳込まれているからである。

このことは、国家から比較的独立した立場で活動する他の協会プロフェッションとは明らかに一線を画する立場に立つことを意味している。

 この部門への加入は必修の教育・訓練を受けた人間に限定されており、通常最低限度以上のプロフェッショナルな能力を備えたもののみに許可される。

 将校団の団体的な体系には、単に公的な官僚機構だけではなく、学会、協会、学校、定期刊行物、そして慣例や伝統も内包される。将校のプロフェッショナルな世界は、将校が多種多様な活動に携わるため異常に大きな規模に広がっている

 将校は通常他の社会から隔離されて生き、そして働く―将校はたぶん物理的、社会的に、他のプロフェッショナルな人たちに比べ、非プロフェッショナルな世界と限られた接触しか持ち得ない

 最後に、将校団に従属する下士官兵の位置付けを明らかにしている。暴力の管理を担う将校と暴力の行使を担う下士官の位置付けは、旧日本軍における考え方と明らかに異なるものである。

 将校団に従属する下士官兵は、組織として官僚機構の一部を構成しているが、プロフェッショナルな官僚機構の一部を構成している訳ではない。下士官兵は将校の知的な技能もプロフェッショナルな責任も持ち合わせていない。彼らはあくまで暴力の行使の専門家であって、暴力の管理の専門家ではないのである

 すなわち彼らの職業はトレードであって、プロフェッションではない。将校団と下士官団のこの基本的な違いは、世界中のすべての軍組織において、例外なくこの両者の間に引かれている鮮明な境界線の中に表れている