三.日本 ― 一貫した政治的軍国主義
国家的イデオロギー―神道と武士道
日本のシビル・ミリタリー・リレーションズに影響を与えた鍵となる要因は、一八六八年に至るまで七百年にわたって持続した封建制度であった。封建制度の下で、日本の社会における支配階級は、表向きの長である天皇、国の真の統治者であるショーグン(将軍)、地方の領主またはダイミョー(大名)、それに将軍と大名の家来であるサムライ(武士)または戦士より構成されており、農民や少数の商人階級を含む大多数の人間は政治問題から排除されていた。しかるに、一八六七年~一八六八年の大政奉還が封建制度に終焉をもたらすことになった。その結果、将軍職は廃止され、天皇は閑居状態を解かれ、国家的問題に対し積極的な役割が与えられることになり、また同時に、権力が地方の領主から中央政府へ移されることになった。このような天皇支配の再興において、そして新しい政治制度の構築において、指導者となったのはサムライであった。
一九四五年に至るまで、日本人の考え方の基本的な枠組みを規定していた、日本の国家的イデオロギーは、本質的に、天皇の権威とサムライの規範を反映したものであり、相互に密接に関係し合うこれら二つの思想体系を合成したものであった。この天皇の権威とサムライの規範は、それぞれ国家シントー(神道)とブシドー(武士道)に体現されていた。国家神道は、日本人の生活の中における政治と宗教の統一化を表したものであり、それは三つの基本的な教義から成っている27。第一の「万世にして神聖な天皇の統治権」に対する信仰の考え方は、一八八九年の明治憲法の第一条と第三条に反映されており、それぞれ「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」と「天皇は神聖にして侵すべからず」と規定している。天皇は現人神であり、その意思は絶対であり、臣民の最高の義務は、単にその意思への服従だけにとどまることなく、それと一体化することであった―それは狂信的天皇崇拝における自我の喪失であった。神道の第二の要素は、日本の国家自体の神聖なる起源に対する信仰であった。日本人は神の手により成る秩序を備え持つ、比類なく恵まれた国民である―「日本は、日本固有の神々によって、神聖な土地、神聖な民族の心理、それに神の力で築き上げられた国家体系が与えられた」国民である。加えて最後の教義として、日本の神聖な使命に対する信仰があった。世界の各国は、物事の階層的秩序の中で自らの所を得なければならない。日本の使命は一提督の言によれば、「天皇の無窮の徳を全世界に行き亘らせることである」。この使命を果たすためには、時折武力を使う必要があるかもしれないが、世界は慈悲深い日本の統率力のもとで一つ屋根の下に導かれることになっていた。
日本の国家的イデオロギーに関するもう一つの要素は、サムライの古くからの倫理である、日本の封建制度における軍事的階級の道徳律であった。封建時代が終わったあと、この道徳律は美化され、武士道という名前が与えられた。騎士のしきたりのことである。武士道の規範は、ヨーロッパの騎士道の行動基準と多くの点で類似しており、武士道の価値観は戦士の価値観、すなわち暴力それ自身のために暴力を賛美する人間の価値観、であった。また刀は「サムライの魂」であり「神の象徴」であった。この好戦的な規範は、従来は比較的限られた階級の固有の占有物であったが、一八六七年以降国民全体のイデオロギーと化した―日本は「疑いなく好戦的な国家となった」28のである。従って、国家神道と武士道を結合する国家的な倫理は、帝国のナショナリズムと封建時代の軍事優先主義とを統合したものであり、それは権威主義的で、民族中心的で、民族主義的で、帝国主義志向で(天皇崇拝と日本帝国の賛美という両方の意味において)、拡張主義的で、戦士と戦士の美徳に高い価値を見出す好戦性を備えるものであった。
日本の軍の精神
日本の軍部は上述の国家的イデオロギーを強く信奉していた。その理由は簡単である。一八六八年の王政復古をもたらし、この国家的イデオロギーの出現を促進した同じ勢力が、また現代日本の軍を創設したからである。軍はさらに、このイデオロギーの中でひときわ固有の地位を占めており、殆んど天皇と同一視されていた―何故なら、彼らは大和民族の世界的使命を遂行するための、卓越したとまではいかないまでも、必須の構成要素を成しており、同時にサムライの伝統を引き続き体現していたからである。国家的イデオロギーは軍に奉仕し、軍は国家的イデオロギーに奉仕した。従って日本陸軍は、ドイツ軍とは対照的に、常に時の支配的な精神と調和するというシュライヒャーの理想を体現していたことになる。軍事的価値観と政治的価値観の間には一切緊張が存在せず、従って日本は世界で「最も政治的な陸軍」29を保有することになった。同時に、この国家的イデオロギーの特質と、このイデオロギーと封建的な伝統との強い結び付きが、日本の将校団を世界の主要軍事集団の中で最もプロフェッショナルな精神を欠く集団へと駆り立てたのである。
日本の政府の新指導者たちが一八六八年以降数十年間、西洋の制度に倣って日本の軍事制度を築こうと意識的に努力したことを考慮すれば、日本の軍におけるこのプロフェッショナルな倫理の無力性は一層驚くに値することであった。日本陸軍はその創設時に、最初はフランス、その後ドイツの軍事顧問団の支援を受けた。また各種の軍事専門学校が設立され、一八七二年に海軍兵学校が、一八七六年に海軍機関学校が、次いで一八八八年に海軍大学校が設立された。将校の採用制度は、ドイツの制度に非常によく似た方式を採り入れており、昇進のために必要とされる要件は、ヨーロッパの何処の将校団においても見られる基準を採用していた。しかるに、これらの制度上の諸方策と共に、西洋において築き上げられてきたプロフェッショナルな視座は、取り込むことができなかった。日本はミリタリー・プロフェッショナリズムの外観、言い換えると外部を覆う殻は手に入れたが、その本質を我がものとすることができなかったのである。その結果、日本の軍の精神は、古くから受け入れられてきたイデオロギーによって支配されたままの状態にとどまることになった。その後二十世紀になって、ようやくある程度プロフェッショナルな軍の倫理に似た考え方が、将校団の中で一定の足場を得たが、それでもそれは比較的弱々しいものであり、明らかに少数派集団の中の存在に限られていた。要するに、日本の軍の支配的理念は、基本的にこの西洋で築き上げられたプロフェッショナルな倫理と相容れないままの状態にとどまっていたのである。
この状態は理想的な将校という概念に最もよく表れていた。本来プロフェッショナルな軍の倫理は、将校の効能と戦士の効能との間にはっきりした区別を付ける。しかし日本人にとって理想的な将校は戦士であった―他の人間による暴力の行使を指揮する管理者であるよりは、むしろ自分自身が暴力の行使に携わる戦闘員であった。これは封建時代の理念であって、プロフェッショナルな理念ではない。一評論家が日本の将校について述べているように、日本の将校はおそらく専門的には西洋の同等者より劣るが、それでもこの弱点は「凛々しい〝勇気〟と闘魂」で補われている。
日本の将校は・・・部下にとって凛々しい指揮官である。その欠点は、ヨーロッパの将校と違って戦闘の司令官にとどまることができないところにある。彼らは戦闘を指揮するよりはむしろ自ら戦い通す。彼らの勇気と名誉心は、必要とする戦闘の技能を状況に応じ正しく理解し指揮することによってよりは、戦う情熱によってはるかに強く鼓舞される・・・。彼らは将校というよりは戦士である。そしてそこに彼らの欠点がある。その違いはわずかかもしれないが、はっきりと存在する―戦士の必須の特質は勇敢さである。将校のそれは統制である30。
日本の軍における将校の教化は専門技術の修得より、砲火に晒された中での勇気の重要性にずっと重きを置いていた。これと関連したこととして、日本陸軍には将校と兵との間に緊密な絆が存在していた。全員が共に戦士であったのである。将校は下士官兵が身に付けていないような技術と能力を備えた根本的に異種の集団を形成しているのではなかったのである。
プロフェッショナルな軍人は一般に、敵対する国家との物質的な力の均衡に関心の焦点を合わせる傾向がある。対して日本の軍の考え方は、物質的な要素の役割を軽視していた。精神だけが決定的要因であり、このことが武士道の基本概念であった。日本では優れた装備は勝利を得るための必須要因とはされていなかったのである―
否!鴨緑江で、また朝鮮や満州で、戦いに勝利したのは、われらの行く手を導き、われらの心の中で鳴動し続ける祖先の霊であった。彼らは死んだのではない。彼らの霊、つまり挑戦的なわれらが祖先の魂は死に絶えてはいないのである31。
あるいは一将校は次のように述べている―「日本帝国陸軍は戦闘の技術に対してよりも精神の鍛錬に対して、より大きな重要性を置く」32。また一九三〇年代に陸軍大臣を務めた荒木貞夫大将は次のように明言している。帝国の使命は、
・・皇道を四海の果てまで普く弘布し宣揚することである。力の不足は我々の気に懸けることではない。何故に物質的な問題に気を使う必要があろうか33。
戦争は従って信念の検証であった。より強い信念を持つ国家は、最後はより強力な軍備を持つ国家に勝利するであろう。神に定められた役割の故に、勝利を収めるのは必然的に日本でなければならない。西欧の軍事思想家にとって、神はほぼ必然的により大規模な部隊の側に立つが、日本にとって神は大和民族の側に立つのである。日本の軍部は、日本とは比較にならないほどの大規模資源国である合衆国との交戦にほとんど異論を唱えなかった。何故なら、我々アメリカの精神は彼らの精神より軟弱であるからである。日本の軍の精神は従って、客観的というよりは主観的であり、また不偏的であるというよりは偏向的である。国家的イデオロギーに深く染まっていたため、軍事情勢を冷静に現実的・科学的方法で分析することは、たとえ不可能ではなかったとしても困難なことであった*。日本における軍事教練は、戦いに向け部隊を訓練する際、その最も重要な側面として「精神の動員」―セイシンキョーイク(精神教育)―に力点を置いていた。本質的にこのセイシンキョーイクは、日本の国家的イデオロギーの精神と原理―個人と国家との一体化、そして天皇の意思への絶対隷属―を教化することであった。この教化は小学校に入学するずっと以前から始められ、その後も継続して実施されるよう決められていた。日本における徴兵制度の意義の一つは、徴兵によって軍部が、事実上すべての日本人男性に、ブシドーとコードー(皇道)の理念を浸透させる機会を得るということであった。
*「軍事的な観点から見ると、日本人の考え方は客観的であるというよりはむしろ主観的であると言える。アメリカの著述家は、平時においても太平洋における戦争について熱心に議論をすることができる。それはちょうどイギリスの学生が、地中海の支配(権)に関して論文を書くことができるのと事情は同じである―また両者とも、フランスがイタリアに対して行う架空の軍事行動や、ドイツがロシアに対して行う架空の軍事行動について、詳細に議論することができる。これに対して日本人は、自らに直接関係のない海域に対しては興味を抱くことができない。西欧の学生は、海軍に関する事項だけに限定して純粋に学術的な線に沿って議論を進められるのに対して、日本の学生は国家的、政治的な問題を無視して議論を進めることが難しい。通常彼らは、グアム島が日本にとって脅威であり、その脅威を取り除かれなければならないと述べたり、ほのめかしたりしないと、グアムについて議論することができない」。 Alexander Kiralfy, "Japanese Naval Strategy." in Edward Mead Earle (ed.), Makers of Modern Strategy (Princeton, 1952), p. 459.
知性の軽視と精神の賛美の所為で、日本では軍事に関するプロフェッショナルな著作物の出版は極めて数が限られていた。一九〇五年から一九四五年にかけ日本は一流の海軍国であったにもかかわらず、その間、日本の著述家は海軍力の本質とその用法に関して、重要な理論を一切発展させたことがなかった。第二次世界大戦以前に、この主題に関して出版されたほんの少数の著作物も、感覚的なものであるか、あるいは非常に初歩的なレベルにあった。学術的分析は存在していなかったのである。陸上作戦に関しても事情は似たような状況にあった。要するに日本は「戦争の科学に関して、これまで一流の業績を挙げたことがなかった」34のである。同様に軍事歴史学―西洋におけるプロフェッショナルな研究の中核をなす学問―は、日本の軍事教育制度の中では、陸軍大学校以外では一切学ぶことができなかった。第一次世界大戦終結後、初めて日本にはかなりの数と質の軍事定期刊行物が発行され始めたが、海軍問題に関する限り、依然として非常に初歩的レベルにとどまっていた。
日本の軍の規律は封建時代の遺物であった。将校と兵は共に、天皇のために自らの命を即座に犠牲にする覚悟ができていなければならなかった。日本の軍人にとって、戦いの中で「テンノーヘイカバンザイ(天皇陛下万歳)」と叫んで死ぬこと以上に名誉なことはなかった。戦死したすべての将兵は神に祭られ、その名前は国家管理の神社に銘記された。しかるに戦士の規範は退却を容認しなかった。西欧のプロフェッショナルな軍の現実的な考え方では、退却は軍事的に当然必要とされる行動であり、従って、予め退却に備えておくことは当を得たことであるとされている。これに対して日本の教義は、退却を許される選択対象に含めることをはっきり拒絶していた。それと共に「降伏よりはむしろ死を」という伝統があった。現実的な軍事的観点から見て、降伏は合法的行為であると認めることを拒絶していたのである。荒木大将によれば―
我が陸軍では退却と降伏は許されない・・。諸外国の軍人は、自ら最善を尽くしたあと降伏し敵の捕虜になることは、許される行為であると認めている。しかし、我々の伝統的な武士道によれば、退却と降伏は最大の不名誉であって、日本の軍人にはふさわしくない行動である35。
戦争は一般に望ましいものではなく、国家政策の最後の手段である、というプロフェッショナルな軍の考え方とは対照的に、日本の封建時代の戦士は、それ自体を目的として暴力を賛美し、戦闘を美化する傾向があった。日本の陸軍大臣は次のように断言している―「戦いは創造の父、文化の母である。試練の個人における、戦争の国家における、斉しくそれぞれの生命の生成発展、文化創造の動機であり刺激である」36。戦争に対する軍部のこのような見方を考慮すれば、一般にある特定の状況下において、日本軍が国家の目標を達成する手段として戦争を好んだとしても、別に驚くには当らない。陸軍の指導者たちは特に好戦的であった―これに対し、海軍の提督たちは陸軍に較べ政治へのかかわり方は少なく、より保守的で、よりプロフェッショナル志向であった。日本の軍部は一八九四年~一八九五年の中国との紛争(日清戦争)に意欲的に取り組んだ。戦争終結時には遼東半島の領有を強く主張した。また第一次世界大戦中は中国に対する強行政策を支持した。大戦終結後のシベリア出兵の間は、さらに奥地に向け日本の影響力を拡張しようと望んでいた。一九二八年の中国への干渉、一九三一年の満州への攻撃も彼らが仕組んだ作戦であった。そして最後に、一九三七年に支那事変を起こし、一九四一年十二月に少なくとも陸軍の指導者たちは、アメリカとイギリスの領地に対する攻撃を強く主張した(海軍は躊躇していた)。政治志向の日本の軍部指導者たちが、上記のように侵略に対して一貫した支持を表明してきた経緯は、プロフェッショナルな傾向を持つドイツの将軍たちが、政府に対して冒険主義に対する執拗な警告を発していたのと、著しい対照を成している。ドイツでは、軍がナチスの国際連盟からの脱退とベルサイユ条約違反の再軍備に反対したのに対し、日本の軍部は、ロンドン海軍軍縮条約からの脱退とその糾弾を支持した。日本の将校団内のより過激なグループは、極めて公然と日本の東アジア支配を正当化するための理由付けを明確に表明していた。
軍の権限―二重の政府
日本のシビル・ミリタリー・リレーションズの法的構造は、本質的に軍部独立方式を基本としていた。要するに、政府は二つの領域に分割されていたのである―軍政と民政である。その原理は「ニジューセイフ(二重政府)」であった。ただし、文民が軍事領域に権限を及ぼすことができなかったのに対し、軍部は自らの政治的影響力を後ろ盾にして、民事領域にたやすくその権限を拡張することが可能であった。
この二重政府に対する法的な権限は、憲法および慣習にその淵源を置いていた。一八八九年の明治憲法は、天皇を軍の最高司令官と定め、その天皇に軍の編制と平和維持を決定する権限、宣戦布告、講和、それに条約締結の権限を与えた。これらの条項は、高位軍部指導者のすべてと天皇の間の直接の関係に対して、憲法上の根拠を与える効用を果たしていた。これによって、陸軍大臣と海軍大臣は、文民の閣僚と違って、天皇に上奏する際首相に諮る必要がなかった。陸軍参謀総長と海軍軍令部総長、それに陸海軍の高位司令官レベルも同様であった。要するに、天皇が軍の直接指揮権を行使していたのであり、軍は天皇の個人的道具であったのである。このような軍と天皇との緊密な一体化が、天皇賛美を伴った国家神道を軍が信奉したことの客観的な根拠となっていた。かくしてこの一体化の関係が日本の軍を法的に独特の地位に置いていた。「諸外国の陸軍は」と一将軍が述べている、「法的な基礎に基づいて作られている。しかるに帝国陸軍は、法よりずっと崇高なものの上に基礎を置いている」37。さらに、軍の任務は文民の干渉を受けることなく行使できることが、一八八九年の勅令において次のように保証されていた。「グンキ(軍機)つまり戦略、およびグンレイ(軍令)つまり軍の指揮に関連して、直接天皇に奏上する事柄は、天皇の意向に基づいて内閣に提示する場合を除いては、陸軍大臣および海軍大臣より内閣総理大臣に報告すべし」38。首相と内閣―国家の文民としての政府―は天皇に対して、陸軍と海軍の作戦、戦略、それに軍の内部組織、訓練、規律に関して輔弼することができなかったのである。
軍に対する文民干渉の排除は、陸軍大臣と海軍大臣に文民の任命を禁止していたことによっても保証されていた。一九〇〇年には、陸海軍大臣は高位将校だけに限るという以前からの慣例が法として成文化された。陸軍大臣は現役陸軍大将、中将に限り、海軍大臣は現役海軍大将、中将に限ると規定されたのである。一九一二年には、この制限は予備役の大将、中将の任命をも容認するよう改められたが、この範囲拡大は一九三六年まで存続したあと、また元の一九〇〇年の方式に改変された。また内閣が交代したとき、軍務大臣は辞任せず引き続きあとの内閣にとどまる、ということがしばしば習慣的に行われていた。それは、文民の大臣と比較して軍務大臣の地位が明らかに異なる位置付けにある、ということを如実に示していた。
このような文民と軍部の間の権限の完全な分割はもちろん、両者の間に絶え間ない軋轢をもたらしていた。それでも、両者のそれぞれの責任領域を明瞭に切り分ける方策を講じることが困難であったため、政府を維持するためには双方の下支えを必要としていた。しかしながら、文民政治における疑獄事件など、予期しない事件の頻発や有為転変が与って、軍部は文民に対して優位な立場に立つようになった。荒木大将はかつて次のように述べている―「陸軍大臣は、軍が望む方策は如何なるものでも採用を強いることができる。また陸軍大臣の反対する方策は如何なるものでも阻止することができる」39。それは単に辞職すると脅すことで簡単に達成されたのである。内閣は組閣のためには、陸軍大臣と海軍大臣の任命が必須の条件であったため、また軍の将校以外はこの両ポストに就くことができなかったため、陸海軍ともその代表を辞職させることによって、内閣を総辞職させたり、あるいは自らの要求が叶えられるまで新内閣の組閣を阻止したりすることが可能であった。再三再四この形態の軍部圧力が日本の歴史の中で繰り返された*。また二重政府は財政処理の方法においても強固な立場に立っていた。というのも天皇―実際には軍部指導者―が軍の平時兵力を決める権限を保持していたからである。予算は国会によって決定される決まりとなっていたが、国会が予算承認を拒否した場合、前年の予算が自動的に持ち越される規定となっており、軍はこの規定を利用した。非軍事部門に対する予算案は、大蔵大臣によって国会に提出されていたのに対し、軍事予算は、陸軍大臣と海軍大臣が自ら国会の前面に立って直接防波堤の役を果たしていた。通常両大臣は、国会における軍事政策に関する実際的な議論はすべて抑え込むなり、握り潰すなりしていた。
*一九一二年に西園寺公の率いる内閣が、陸軍の兵力増強の要求を否認したとき、陸軍大臣が辞任し、内閣は倒壊した。一九一四年に清浦子爵が組閣を試みたが、海軍大臣を務める提督候補の推薦が得られず、組閣を断念せざるを得なかった。一九三六年に廣田弘毅が組閣した際、陸軍は外務省、拓殖務省、法務省に対する廣田提案の指名候補者を拒否し、代わりに陸軍の考えに近い候補者を登用するよう強要した。一年後に、陸軍は廣田総理を見限り、陸軍大臣を辞任させ、その結果廣田内閣は瓦解した。そのあと、リベラル派の軍人宇垣一成大将に組閣の大命が下ったが、陸軍内部の有力な勢力が、宇垣大将に対して抱いていた旧怨を拠り所に、陸軍大臣を務める将官候補の推薦を拒否し、宇垣大将の組閣を阻止した。陸軍はこれに代わる林銑十郎大将に対してはより寛大であった。宇垣の組閣失敗のあとを引き継いだ林は、陸軍大臣の選定と内閣の実行計画を陸軍に押し付けられるままに受け入れたのである。また一九四〇年の米内内閣の倒壊は、陸軍の代表辞職によって惹起されたものであった。米内のあとは、ほぼ完全に陸軍の計画を受け入れた近衛文麿が 引き継いだ。以下を参照されたい。Chitoshi Yanaga "The Military and the Government in Japan," Amer. Pol. Sci. Rev., XXXV (June 1941), 535-539; Hillis Lory, Japan's Military Masters (New York. 1943), ch. 5; Hugh Borton, Japan Since 1931 (New York, 1940), pp. 45-55.
軍の権限構造の中で強いて弱点として一つ挙げるならば、それは責任が多数の軍の部門間に分割されていたことであった。この点で日本の組織は、第一次世界大戦前のドイツの組織と似通っていた。例えば陸軍の場合、最高幹部として「三長官」を定め、この三人が陸軍全体を率いる形態を採っていた―三長官とは陸軍大臣、陸軍参謀総長、教育総監である。一方海軍の場合は、海軍大臣と軍令部総長を頂点としていた。その他に一八九八年に創設された元帥府があったが、これは主に名誉職的色彩の濃い組織であった。より重要なのは、軍事参議官会議であり、この組織はすべての最高位の将軍と提督より構成され、幅広い軍事政策に対して責任を負っていた。また戦時には、陸軍と海軍の幕僚から構成される大本営が設置された。これらのさまざまな組織間で起こり得る競合は、相互の協力により組織全体の権限強化が図り得る、という共通の意識によって抑制されていた。例えば、一九三一年に政党の社会的地位が高まったとき、陸軍の三長官の間で、重要人事はすべて三者の意見の一致をもって決定するという合意が形成された。その後陸軍大臣は自らの権限を強化し、一九三五年には教育総監の上位に立つことを明示した(教育総監を罷免した)。その結果一九三一年の合意は破棄され、人事決定に関しては陸軍大臣の全権限掌握が可能となり、三長官の中で最高位の地位を占めるに至った。結果的に見れば、軍の各部門間の多様な協力関係や上下関係は、いずれも本来軍にとって多部門の乱立という不利な条件となる筈であったが、文民の権限強化の実現に力を貸すまでには至らなかった40。
日本の二重政府は、名目上完全に独立したそれぞれの領域で機能する仕組みになっていたが、実際は、文民は軍事問題から締め出されており、逆に軍は非軍事問題で積極的な役割を果たしていた。軍の権限と影響力は、外交政策や国内政治の分野にまで拡大していく勢いを見せていたのである。一陸軍大臣が次のように語っている、「一般に認められている軍事参議官会議の審議の範囲は、国防に関する政策問題に限られるとされていたが、実際は審議の範囲には何ら制約も条件も付けられていない」41。二重政府は必然的に二元外交を招来した。例えば、軍の現地指揮官が戦場において自らの軍を守り戦況に応じてとる行動は、内閣の統制外に置かれていた。一九三一年の満州における危機的状況において、現地指揮官は、東京の軍首脳部の支持を得て独自路線を突き進み、結果的に、九月十八日の柳条湖事件の影響を押さえ込もうとする、外務大臣の努力を挫折に追い込んだ。また軍部は、外務省と内閣の反対を押し切って、朝鮮に駐留する日本軍に国境を越え満州へ侵入するよう命じた。これに対し数週間後に外務大臣が合衆国に示した、満州不可侵の保証をものともせず、陸軍は意のままに行動し、結局国境の町錦州を占領した。一将軍が、満州に関する軍部の考え方を表明して、次のように記している、「国家の運命を心に描くことのできない外務省に国の外交を任せて来たのは極めて危険なことである・・・。国家政策を推し進めることができるのは陸軍だけである」42。
軍部は自らの独自外交政策を推進しようとするだけでなく、国内経済についても躊躇することなく、明確な計画を推し進めようとしていた。荒木大将はかつて次のように述べている、「陸軍はただ軍事行動だけを準備すれはよいという訳ではなく、経済的、社会的、文化的問題を解決し、外交政策において堅実、健全、かつ正当な前提の上に立って、独自の路線を推し進める準備をしておく必要がある」43。一九三〇年代の陸軍省は、「帝国社会主義」という純粋に経済的なフィロソフィーを推し進めたが、それは多かれ少なかれ、実質的に軍事福祉国家に等しい構想を示す方策であった。国内政治において軍部に対する中心的な反対勢力は、通常上流の中産階級であったが、軍の経済計画は、これらの勢力に対抗する反資本主義的性格を帯びる施策であり、その目標は、自由企業制に反対し、経済に対する厳格な国家統制の実施、社会保障と失業保険制度の拡充、それに富の局在を抑止するための税制の見直しを支持する構想を視野に入れていた。経済に対する軍の構想の多くは、最終的に一九三八年に可決された国家総動員法に結実されるに至った。
軍の政治的影響力
日本の社会における軍の政治的影響力は、この時代を通して終始高いレベルに維持されていた。その唯一の低落の兆候は、一九二二年から一九三一年の間に見られたが、この間日本は戦争突入の可能性がほとんどなく、また初めて信頼できる政党内閣が実現した時期であった。軍の影響力の低落に影響を与えたもう一つの要因は、軍の権力基盤が少数の藩から、より広範囲にわたる国民レベルに移行したことも反映していた。総じて見るに、日本における軍の政治的影響力には鍵となる要因が五項目存在していた。
第一に、軍は日本の西部に位置する長州藩と薩摩藩という強力な勢力と強い関係を築いていた。これら両藩は、一八六八年の王政復古を推し進めるうえで、指導的役割を担ったほとんどの有力人物を輩出し、王政復古のあと長州藩は陸軍を、薩摩藩は海軍を牛耳る勢力となった。一九二二年に至るまで実質的にすべての軍の要職は、これら両藩のいずれかの出身者で占められていた。同時にこの間、両藩の確執が政府内で広く見受けられるようになり、その結果、軍を政治に巻き込むという傾向に拍車をかけることになった。このことは、陸軍および海軍に各々政治的土台と政治的主導権の確固たる基礎を築くことに作用した。例えば、一九〇九年時点において長州藩は、最大の政治的影響力を誇る長老政治家山縣元帥を擁していたが、彼は総理大臣、陸軍大臣、陸軍参謀総長を歴任した。これに対し薩摩藩は、事実上すべての主要な提督を輩出し(海軍大臣は一部他藩からも)、将軍も数多く輩出した。しかしながら、このような軍とサムライ集団との強い関係は、第一次世界大戦の頃にようやく衰退の傾向を見せ始めていた。例えば、長州藩の影響力は一九二二年の山縣の死によって大きく後退し、また薩長両藩が将校団の中で、その独占的地位を維持することは社会情勢的にも不可能となってきた。より小さな藩や中産階級の出身者が軍の階級組織の中に自らの進路を求め始めたからである。さらに一九二〇年代の末までに将校団は、そのメンバーを小規模地主、小売店主、小規模工場主などより低位の中流階級から補充するようになっていた。このように将校団の母体が広がっていった経緯は、多くの点でドイツ軍とユンカー貴族の関係が段階的に弱まっていった経緯と似通っていたが、この経緯は、軍の主たる支持基盤が一部の社会的、地理的集団から、広く社会全般に移り変わる傾向を示していた。
日本の軍の政治的影響力に関する第二の要因は、軍人が政治の重要な非軍事的ポストを占めていたという事実である。これはドイツではほぼ皆無に近い社会現象であり、カプリーヴィやシュライヒャーのような政治的軍人は例外的な存在であった―一方日本では、軍人政治家が常識であり、同一人が軍事的任務と非軍事的任務の両方を遂行するというのは、封建時代の伝統を受け継いだレガシーであり、明治維新の早い段階から、軍の指導者たちは非軍事的分野で重要な役割を種々担っていた―法典の編纂、教育制度の確立、国家官僚機構の整備、その他多くの改革である。その後時の経過と共に、軍人が政治において上級の職位に就くことが一般的な容認事項となり、その権勢は内閣、枢密院、さらに皇室に浸透していった。
一八八五年十二月の議会政治の開始から、一九四五年八月の降伏に至るまで、日本には三十人の首相が登場し、四十二の内閣を率いた。これらの首相のうち十五人は将軍か提督であり、彼らは十九の政府を率いた。三人の長州出身の将軍、山縣有朋、桂太郎、それに寺内正毅は、一八八九年から一九一八年の三十年間の半分以上の長期にわたって首相の座を占有した。一九二〇年代における政党優位の時代においては、文民政治への軍の参加は下火となったが、それでも二人の提督、加藤友三郎と山本権兵衛が一九二二年と一九二三年に首相となり、田中義一大将が一九二七年から一九二九年まで首相を務めた。満州事変以後軍の影響力は再び優勢に転じ、斎藤実提督と岡田啓介提督が一九三二年から一九三六年まで首相職に就いた。その時から一九四五年八月の降伏に至るまで、日本は九人の首相を戴いたが、そのうち四人が将軍であり、二人が提督であった。首相の職を最長期間務めたのは東条英機大将であり、一九四一年十月から一九四四年八月まで内閣を統率した。また内閣が軍人の首相を戴いたか否かに関係なく、しばしば軍人が非軍事的ポストを占めており、一八九九年から一九〇〇年までの山縣内閣では、軍は十のポストのうち五つを抑えていた。また田中大将が一九二七年から一九二九年まで首相を務めていたとき、彼は同時に外務大臣の職に就いていたが、その他にも一九三〇年代のさまざまな時点で、軍人が内務大臣、外務大臣、文部大臣のポストを占めていた。
軍の影響力は政治の他の部門にも及んでいた。例えば、山縣元帥は一九〇二年から一九二二年まで枢密院議長を務め、同時に、天皇を補佐する長老の集団であるゲンロー(元老)の中で最も強大な影響力を持つメンバーの一人となった。彼は「政治および軍事の両面で、陰の実力者、内閣の発足と更迭の仕掛け人、さらに、その言葉が法であると言われた人物であった」44。枢密院は通常親軍的であり、例えば一九三〇年にロンドン軍縮条約の批准を五ヶ月間阻止した。また伝統的に軍は、皇室における天皇の助言者の中でも強い立場を占めていた。しかし一九三〇年代に入ると、よりリベラルな考えを持つ多くの政治家が天皇の側近に任命されたため、皇室に対する軍の影響力は弱められる傾向を示した。
軍の政治権力に関する第三の重要要因は、軍が愛国的、ファシスト的、軍国主義的な諸団体から支援を受けていたことである。これらの中には退役軍人会、愛国婦人会、国防婦人会のような大規模な大衆組織と、玄洋社や黒竜会のような小規模な秘密結社も含まれていた。これらの団体の活動の範囲は、テロ行為から宣伝活動に及んでいたが、軍の将校はこれらの活動の組織化、指導、資金調達において、しばしば重要な役割を担っていた。一方これらの団体は常に、軍の領土拡大を目指す外交政策並びに内政改革と統制を目指す国内政策を支持していた。
藩の影響力の衰退に伴って、軍に対する最重要の政治的支持母体は国民全体へと広がっていった。特に陸軍は、自身を一般市民と一体であることを見せ付けるために、如何なることも実施した。明治維新の早い段階から、強壮な男子すべてに対し兵役が義務付けられており、将校団は能力に応じてすべての人に開放されていた。陸軍は伝統的に、兵卒階級に対して非常に家族主義的な政策を採り、大衆の福祉向上のために種々の対策を講じた。一方二大政党、立憲政友会と憲政党は、第二次世界大戦前大企業の権益と密接に結び付いていたため、陸軍はしばしばこのような政治家、実業家、銀行家たちの「汚職」連衡を攻撃し、陸軍自体は、国家全体の利益のために国事を公平、効果的、かつ誠実に執行する立場に立っていることを誇示しようと努めていた。その結果、軍は国民の利益と国民の理想の権化となり、一九二〇年代に陸軍に対する大衆の支持が下火になった時期も、軍は日本国民の平均的階層に対し、これらの基本的な訴えを決してやめようとしなかった。
軍の政治的影響力に関する最後の第五の要因は、日本の政治が一九三一年に再びテロリスト的手法へ回帰したことであった。これは実質的に、超法規的な暴力制度を正規の立憲政治制度の上位に位置付けたことを意味していた。軍の要求に反対した政治指導者たちは、暗殺のリスクを負う身となり、ロンドンの海軍軍縮条約を承認した浜口雄幸首相は一九三〇年十一月に襲撃され、そのとき受けた傷が元で死去した。彼の後継者犬養毅は一九三二年五月十五日の軍の反乱五・一五事件において殺害された。最も大掛かりな叛乱事件は、一九三六年二月二十六日に決行された二・二六事件であり、その中で鈴木貫太郎侍従長、渡辺錠太郎陸軍教育総監、それに高橋是清大蔵大臣などが暗殺され、その他かろうじて殺害を免れた政府高官が多数に上った。暗殺の犯人は若年将校と士官候補生であり、彼らは政府の国内外における軍事計画推進上の不手際に強い不満を抱いていた。これら過激派の若い将校たちと最高位の軍の指導者たちの間の関係は、必ずしも判然としていないが、暴動の勃発がすべて後者の利益に寄与したことは明白であった。これらの大事件のあと、軍の影響力の著しい拡大と、軍の要求に対する文民の著しい譲歩が現実のものとなった。二月二十六日の事件後、軍は事実上新内閣の組閣を取り仕切り、予備役将校の軍務大臣就任を認めた一九一二年の法令の廃止を実現した。要するに、暴力の隠然たる脅威が、軍の政治的影響力の重要な構成要素を成していたのである。ドイツの将校は、たとえ心理上でも只の一件の暗殺も首尾よく実行することができなかったが、これに対し、彼らの日本の同等者は、そのようなことを阻止されることに煩わされることもなく、またそのための技巧の欠如に煩わされることもなかった。
日本のシビル・ミリタリー・リレーションズの将来
軍が政治へ持続的に関与するという形態は、一九四五年の日本の将校団の壊滅と共に終焉を迎えることになった。国家は完全に一新され、敗戦後の八年間は、日本に存在する唯一のシビル・ミリタリー・リレーションズは、アメリカの占領軍と日本の文民組織との間に存在するものだけとなった。また、主権を回復した直後の日本は、未だ取り立てて問題にするほどの軍を保有している、と言えるような状況ではなかった。従って、実質的なシビル・ミリタリー・リレーションズは存在しなかったと言ってよい。だが、この状況がいつまでも続くことはあり得ない。日本が新しい軍事制度を創設する際に白紙状態から始められることは、ある意味通常では見られない自由度を手にすることになる。しかし日本の指導者たちは、昔の将校団の政治的特質と、その惨憺たる帰結をよく認識している。そのため、新将校団に対しては完全なる政治不干渉を強く主張することが十分考えられる。一方で、日本の現代のイデオロギーは著しく平和主義的である。それは戦前の好戦的ナショナリズムとは著しく異なっているが、戦前と同じようにミリタリー・プロフェッショナリズムに対しては敵対的である。そのうえ、プロフェッショナルな軍の伝統の欠如と、アメリカ的な考え方と慣行の影響を受けたことが、不偏的シビリアン・コントロールの実現を一層複雑化しているように見える。シビル・ミリタリー・リレーションズの方式として、一九四五年以前に優勢であったものとは外観上は異なるが、本質的には異なることのない形態が日本に出現する可能性が高いように思われる。